カテゴリ: 【脳腫瘍について】



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【11月7日】

いよいよ、説明の日。


私は、もうずっと不安で、
気を紛らわすためにも、

午前中は仕事に行き、
ギリギリまで働いて、 
12時過ぎに出発。


旦那は朝から、
部屋の移動があったみたいで、
バタバタしていました。

その後は、
男の看護師さんに付き添ってもらって、
お風呂に入れてスッキリした様子。


そして、リハビリ。

リハビリの先生から、
だいぶ元気になって、
しっかり歩けるようになったので、
トイレまでの看護師の付き添いは、
もうしなくていいように伝えておきます。

との判断がでました。

これには旦那も喜んでいました。

しかし、あの例の看護師さんは、
更に大暴走するのです...。
それはまた別で書きます。



そして、頭の傷口を止めていた
ホッチキスも半分が外され...

旦那は、
手術後からどんどん良くなり、
見違えるほど元気になっていました。


私は15時頃、病院に到着。


個室に呼ばれ、
旦那も来ました。

顔を見た瞬間、
かなり笑顔な旦那...


もうビックリするほど、
元気で明るい表情で、

雰囲気が別人のようでした。

そんな旦那に驚いてるうちに、
先生や看護師さん達が入って来ました。


執刀医のM先生。
主治医のE先生。
看護師さん。



執刀医のM先生が
旦那を見た瞬間、

先生:「だいぶ元気になりましたねぇ。

旦那:「はい。かなり調子良いです。

先生:「ホルモンを足してますからね。
その影響がしっかり良い方向に出てますね。


旦那:「そうなんですねー。ははは。


もう入院した頃の旦那のからは
考えられないほど堂々とした受け答え。

もう私は、不安も吹き飛ぶほど、
旦那の変化に驚いていました。


そして、本題に入り、、、


先生:「検査結果が出まして、
胚細胞腫という種類でした。

その中でも、胚腫で、
ジャーミノーマというものなのですが...



もう私は、
胚腫という言葉を聞いて、

涙が出るほど嬉しかった。


悪性には変わりないけど、
胚細胞腫の中では、
1番悪性度が低い種類で、
予後も良くて生存率も高いもの。


もう私はその答えだけで、
頭が真っ白になり、、、

その後の説明が
あまり頭に入って来なくて、

ただひたすら、
心の底から安心していました。


手術後に、
自分が悪い病名だと診断されていたなんて、
全く知らなかった旦那は、

私が横で安心してることなんて気付かずに、
平然と先生との会話を続けていました。


私が先生に、
先生が手術の日に説明してくれた
神経膠腫という可能性は、
もう全くないのでしょうか。

と聞いてる途中で、

だいぶ食い気味に
あぁ、もうそれはない!
って少し嫌そうに言われて
話を変えられました。


もしかして、
自分の診断が間違ってたことを
気にしてるのかな?と思いながら...

正直、少し不信感も抱きました。


先生に断言されてから、
毎日毎日どれだけ辛かったか...

ってちょっと訴えかけたかったけど...笑
結果が良かったので私も水に流しました。



それから、
今後の治療の説明があり、、、

先生:「今後は放射線と化学療法で
治療していきます。


先生:「細かい治療内容などは、
放射線などの先生たちと話し合って、
これから計画書を作っていきますので、
それが決まったらまたご連絡します。



私:「治療期間は
だいたいどれくらいになりそうですか?


先生:「大まかな予定では、
トータルで半年くらいかなぁ。



2年かかるかもしれない
と言われていた治療期間も、
半年に減り・・・

こんなことってあるの?
これは現実?
本当にこの結果を信じていいの?
と状況を疑うほどでした。


そんな私の困惑をよそに、
旦那は説明中も終始笑顔で、

まるで他人事のように
元気に先生と喋っていました。


そんな旦那を見ていると、
これは現実なんだと実感できて
かなり嬉しかった。


しかし、、、

いくら予後が良い病名だとしても、
悪性には変わりなく、
何があるかも分からないし、

今後の治療が
大変で辛いことには変わりない。


だから、この結果を聞いて、
喜ぶべきではないとは分かっていても、

私からしてみれば、
天と地ほどの差があり、

正直、喜びと安心で
溢れていました。


平均余命2年~3年の病名から、
10年生存率90%の病名に変わった。

これは神様がくれた
奇跡なんだと思いました。


正直、1番辛い時には、
神様なんていないって思ってた。

でも、やっぱり神様はいたって思えた。

こんな都合の良い考え方は、
ダメかもしれないけど、
私はこれは奇跡だと信じてる。

私にとって、あの辛い日々は
意味のある時間だったんだと
前向きに捉えるようにしました。


身内や友達は、喜びと同時に、
やはり先生たちへの不信感が...

でも、良い診断から、
悪い結果に変わるよりは、

結果が良くなった方だったので、
私はもう気にしないようにしています。


しかし...
またしばらく後に、
思っていたよりも悪い内容を
説明されることになるとは...



しかし、、、
私がリアルに感じたこと。

病名の重症レベル?が下がってから、
先生たちの対応が、急にすごく
あっさりしたような気がしています。

この日の説明自体も、
すごく短くて、
サラッと終わった印象でした。


そして、
私が目のことを聞いても、

先生:「あぁ、もう目も良くなるよ!

私:「見えてる部分だけでも
眼鏡の視力を合わせてあげたいので、
できれば、眼科での処方箋を
出してもらいたいのですが...


先生:「いやいや、視力も良くなるから、
今めがねを作り替えるのはもったいないよ。


私:「え?見えてる部分の
視力も良くなるってことですか?


先生:「うん!なりますよー!」と
食い気味で即答されました。


本来なら、
かなり喜ぶべき返答でしたが...

私は先生の答え方の
軽さや適当さ?に、
あまり信じきれず...


その後、
他の先生からの説明で、
目は良くならないと言われ、

やっぱり私の悪い予感は
的中したのかと、

執刀医の先生に対して、
また少し不信感が...


そして、こまめに状況報告の
電話をくれていた主治医の先生からも、

治療が始まってからは、
もう1度も電話はありません。


私が感じたのは、

病名が変わり、
先生たちの中での、
優先順位が下がった。

これをリアルに感じました。


今までと比べると、
先生たちのあっさりした対応は、
少し悲しい部分でもありますが、

先生たちが優しいことには変わりないし、
心の底から、とても感謝もしています。


なにより、
病状が軽いということなんだ...
ということで、
喜ぶべきことなのだと思います。

予想してなかった部分での、
あまりの変化に
私は少し困惑してしまいましたが...



つづく。


というわけで...

最終的に
旦那についた病名は、

胚細胞腫・胚腫・ジャーミノーマ



ここまで、
詳しい病名が分かるまで...
というタイトルで書かせて頂きましたが、

病名が分かるまでの話は、
これで終わりになります。


次回からは、
治療が始まってからのことなどを、
また記録のように書かせて頂きます。

分かりにくい文章だと思いますが、
ここまで読んでくださった皆様、
本当にありがとうございます。


今後も、どうぞ
宜しくお願い致します。




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ホルモン補充のおかげで、
旦那はだいぶ元気を取り戻していた中、

私は、検査結果が出るのを、
毎日毎日待ち続けていました。 


先生から、
神経膠腫で悪い状態」だと、
断言された手術日から、、、

正直、私は毎日毎日本当に辛くて、
今まで生きてきた中で1番、
比べられないくらい辛い日々でした。


働く気力もないけれど、
家に1人で居るよりは
職場に居た方が気が紛れる。

職場のみんなも
事情は全て知っていたので、
すごく気遣ってくれて、
本当に有り難かったです。


でも、仕事中でも、
急に溢れてくる涙。

考えちゃいけないと思ってても、
フッと感情が崩れて涙が出てくる。

職場のみんなから
優しい言葉をもらうだけでも、
涙が止まらなくなる。


そして仕事が終わって、
家に帰った途端、
もう何もできなくなる。

家に帰るのが嫌で、怖かった。
旦那のものを見るだけで、
涙が止まらなくなる毎日。

こんなに辛いなら、
もう思い出は増やしたくない。
とまで思ってしまいました。


旦那とのLINEを続けながら、
ただボーッと座って、
夜8時にはベットに入る。

テレビの音も
何も頭に入って来ない。


旦那が先に寝てしまって、
LINEが途絶えると、
もう後は泣きながら眠りにつく。

私が旦那を支えるべきなのに、
旦那が先に寝るのが怖くて、
必死に先に寝ようとしていました。


ご飯もお風呂も、
水を飲むことすら、
全くできてませんでした。

手術後の説明を受け、
正式な検査結果を聞くまでの間、

私はかなり不安定になっていて、
10日間で5キロも痩せていました。


朝になると、
仕事に行かなきゃという気持ちで
自分を奮い立たせて、

お風呂に入り、軽く準備をする。
化粧もまともに出来ない日々でした。


毎日フルタイムで働きながら、
早退できる日や休みの日は、
必ず病院に行き、

週に3回以上は通っていました。


会えなくても、
近くに行けるだけで、
気持ちが楽でした。

旦那の為に行ってるのか、
自分の為に行ってるのか、
正直分からなくなっていました。


往復5時間の運転は、
家に1人で居る時間よりは、
気持ちが楽だった。

ただ音楽すら聴けず、
ずーっと常に無音状態でした。


旦那とのLINEや電話では、
平然を装って接していたし、

私がしっかりしなきゃ!
という冷静さもあったけど...


旦那を失うかもしれない
という現実を全く受け入れられず、

常に不安で怖くて、
苦しくてずっと心臓が痛かった。


もう私は正直、
ギリギリの状態になっていました。


そんな中、
11月3日の15時頃...

主治医のE先生から電話が。


検査結果が出ました。

実は、先日の説明で
私たちが話していた病名と、
検査結果が全く違ってまして...

今、私たちも正直、
驚いている状況です。


そう説明され、
私の頭も急に混乱。


手術後に説明した通り、
私たちは“神経膠腫”だと判断していました。

それが検査結果では、
“胚細胞腫”として出てきました。



私も執刀医の先生も、
ちょっとビックリしている状況で、
信じられない感じなのですが...

でも、検査結果が全てなので、
今後の治療も検査結果に合わせて、
行っていくことになります。



先生は、かなり不思議そうに、
驚いてる感じで説明されました。

先生たちは、
検査結果が信じられないけど、
そういう結果が出た以上は、
それを信じるしかないということでした。

そんな先生の様子に、
私も困惑してしまい...


この前説明してくれた病名と、
どっちが悪いんですか?


私が1番気になっていたのは、
正直そこの部分でした。



まだ胚細胞腫という
結果だけしか出ていなくて、

その中でも、
細かい病名に分かれるのですが、
その種類によって全然違うので、
まだそれは分かりません。

来週月曜日に説明する時には、
もう全て結果が出ていますので、
月曜日の15時から
詳しい説明をしますね。



神経膠腫の場合は、
細かい種類がグレードとして表されますが、

胚細胞腫の場合は、
更に細かい病名で表されるとのこと。

私は、先生との電話を切って、
すぐにネットで調べました。


その種類によって、
全然違う予後や生存率。

その細かい種類が、
悪性度の3段階で分けられており、

1番悪性度の低い、胚腫。
(10年生存率90%)

中等度悪性群
(5年生存率50%)

高等度悪性群
(3年生存率30%で、
悪い人は1年程度。
良い人でも5年の生存は困難。)



調べてみると、
種類によって差が凄くて...

私の不安は軽くなるどころか、
更に増していました。


先生たちが断言していた
神経膠腫とは違ったとしても、

悪い状態だと思っててください。
という先生からの
あの言葉がフラッシュバックして、
悪い方にしか考えられず、、、


悪い人だと余命1年~3年。

最初に断言されていた
神経膠腫のグレード3か4よりも
もっと悪いかもしれないという恐怖で、

その電話から、
説明の日までの3日間は、
更に辛い日々でした。


つづく。



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【11月1日】


手術から4日目。


朝5時に起こされて採血。

この日は朝から、
頭痛が激しかったみたいで、
薬を飲んで少し安静状態に。 


9時。理学療法の
リハビリが始まりました。

点滴やおしっこの管が
まだ繋がってる状態で、
それごと移動して歩く練習。

久しぶりに立って歩いたので、
少しフラフラして歩きづらかったらしい。


11時。
リハビリの先生からOKが出たので、
オシッコの管が取れました。

今後のトイレは、
看護師を呼んで、
一緒に歩いて行って、

尿を容器に全て出して、
看護師に見せてから、
流して量を測る。

これが、、、
とある看護師さんの異常な行動?によって、
旦那にとってかなりのストレスになるとは
この時にはまだ分かりませんでした。



12時。お昼ご飯。

13時。ベットに寝たまま、
看護師さんから頭を洗ってもらい。

14時。
尿量が多いからと、
注射を打たれ、、、

その筋肉注射が
かなり痛かったみたいで...
この時点でもう疲れ切っていました。

15時。
作業療法のリハビリ開始。


色々終わった16時頃には、
もう旦那は疲れ果てていて、
元気がなくなっていました。

まだ点滴も繋がっていて、
トイレにも1人で自由に行けない、
大部屋でのストレス。

一息も付けないまま、
慌ただしく次から次に呼ばれて...
ストレスと疲れを感じていたようでした。



俺はいつ退院できる?
いつになったら治る?
あとどんな治療をするの?
目は見えるようになるの?

私にとっては辛い質問が
色々と続きました。


本当のことを言うつもりはなかったけど、
嘘をついて期待させ過ぎるのもダメ...

今の状態で、
治療が2年以上も続くなんて言ったら、
更に落ち込むだろうし...

でも、私がちゃんと答えてあげなきゃ
不安になるだろうし...


まだ検査結果が出ないと
何も分からない。
」とは答えつつも...

言葉を選びながら、
慎重に答えていました。

2ヶ月で一時退院できるから、
年内は帰れるって先生が言ってたよ!


私には、先生から言われた
明るい事実だけが頼りでした。


旦那は、自分の病状に対しても、
私が過去に答えたことでも、
やっぱり同じことを聞いてきました。

そして、、、
「〇〇はどこ?
入れてたバックはどこ?」

やっぱり何度も何度も、
同じことを聞いてくる旦那。

私も根気強く、
何度も何度も同じことを答えていました。



19時過ぎには、
旦那も少し元気を取り戻し、、、

お腹空いたー!
晩ご飯も全部食べたのに、
もうお腹空いたー!


と言いながら、
かなり疲れていたようで、
早めに眠りにつきました。


この急な空腹から、、、
旦那の食欲が爆発することになるとは
全く想像していませんでした。



【11月2日~4日】

最後の点滴も外れて、
体が常に繋がれていたストレスからも
全て解放され・・・

心配していた貧血も良くなり、

心も体も、
だいぶ元気になった旦那。


目のむくみや腫れも引いて、
両目ともだいぶパッチリ
開くようになっていました。


たくさんの薬を飲み、
毎日の採血や検査、
尿量を減らす為の注射、
理学や作業のリハビリ、
他の科での受診。

前向きに、本当に
よく頑張ってくれていました。


LINEの文面も
ずーっと明るくて元気で、
常にふざけあったやりとりが
続いていました。


もしかして、
手術後からは、薬や注射で
ホルモンを足すようになってるはずだから、
先生の言ってた通り、

どんどん気力や活力が沸いて、
元気になっていってるのかな?
なんて期待していました。


しかし、旦那が1つだけ、
かなりストレスに感じていたことが。


それは、、、
毎回のトイレ。

トイレに行く時は、毎回必ず、
ナースコールで看護師さんを呼んで、
一緒にトイレまで行って、

容器に出し終わったら、
外で待ってる看護師さんを呼んで、
色などを見てもらってから、
トイレに流して量を測って終わり。

という流れでした。


しかし、、、

とある1人の看護師さんだけは、

トイレの個室の中にも入って来て、
「はい、出してください。」と、

パンツを下ろす所から
ずーっと目の前に居るらしく...

容器に出す所も、
出し終わるまで、
ずーっとまじまじと
間近で見られているらしい。


最初の数回は、
こういうもんなんだと、
旦那も我慢していたらしいのですが、

ナースコールで呼ぶ度に、
毎回その看護師さんが来るようになり、

やはり毎回、
トイレの個室に入った時から、
その看護師さんの目線は下半身。

ずーっと間近で見られる。


他の看護師さんは、
トイレの外で待っててくれるので、

旦那もさすがに
その看護師さんの言動が
ストレスになり、

まじまじと見られてる時に、
「出ません。」と言ったら、
「あっ。」と言って外に出るらしい。

でも、次のトイレの時には、
またジーッと見てくる。


トイレに行く度に、

「なんで?」「さすがに疑問。」
「イライラしてしまう。」

「毎回、俺が出ませんって言うまで、
外には絶対に出てくれない。」

「出ませんって言っても、
外には出ずに目線を外すだけの時もある。」

そんなLINEが来るようになり、
旦那のストレスがどんどん
溜まっていってることが分かりました。


旦那も私も、
それも必要なことなのだろうから、
今は我慢しなきゃと思う反面、

看護師さんによって対応が違ったので、
その点は不思議で疑問でした。


そして、数日が経ち、
旦那の我慢も限界に近づいていた日...

脳外科主治医E先生から、
色々な報告で電話がありました。


その時に、
私は聞いてみました。

旦那から聞いてる状況を
全て説明して、

あまりに近くで見られ続けることに、
あれじゃ出るもんも出ない!って、
ちょっとストレスが掛かってるみたいで...

必要なことなんですかね?



すると先生は、
ビックリした感じで、

え?看護師がそこまで?
いや、それは必要ではないです。

それは本当に
申し訳ありませんでした。

私は看護師に、
そういった指示は出してません。

そこまでしているとは知らず、
私もそこまで確認してなくて、
把握できていませんでした。

私から看護師へ指導しておきます。

旦那さんにもそれは
申し訳なかったと謝罪しておきます。



もう私は心の中で、
えーーーっ!?!?
もっと早く言えば良かったー!

と叫んでいました。

先生も、「いやーちょっと
その看護師は異常ですね。
それはさすがに私でも出ませんよ。
それは私でも嫌だなー。

とだいぶビックリしていました。


ただ、
まだ急にフラフラする可能性があるので、
移動する時の付き添いは必要なこと、

トイレ後の尿量などの
チェックが必要なことは、

丁寧に説明して下さって、
それはもう少し落ち着くまでは、
我慢してほしいとのことでした。


それは私もその方が安心だし、
旦那のストレスは、
トイレの個室内でのことだけだったので、
それは全然大丈夫です。」と伝えました。


旦那にも、
先生から言われたことを
そのまま報告すると、

なにそれ!
我慢しなくて良かったの?
それなら早く言えば良かったよー!

と言いながら、

これでストレスから解放される。
とかなり喜んでいました。


しかし・・・

その後も、
その問題看護師の異常行動が続き、
他のことまでもストレスになるとは
思ってもみませんでした...。


つづく。



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【10月31日】

この日は、仕事を早退して、
夕方に病院へ行く予定。

まだ術後で会えないだろうから、
看護師さんに荷物を渡すだけですが、

早く行きたくて、
朝から仕事を
急いで終わらせていました。

その間も、
旦那とのLINEでのやりとりは
続いていました。



すると14時頃、
病院からの電話。


ビックリして慌てて出ました。

あの急変以降、
病院からの電話はトラウマのように
怖く感じるようになっていました。


電話は、
脳外科主治医のE先生から。

血液検査をしたのですが、
貧血状態になっていることが分かりました。

今から輸血で血を足す治療をしてきます。
同意して頂けますか?



旦那とのLINEは続いていたので、
私はちょっとビックリして、

体調悪いんですか?」と聞くと...


先生:「いや、本人の体調には
なにも変わりはないので、
今のところ心配はありません。

恐らく、
緊急手術をしたときに出血した分で
血が足りなくなってる状態だと思うので、

ますは輸血をして様子をみます。



私:「分かりました。
よろしくお願いします。
輸血をすれば良くなるんですか?


先生:「私たちの予想通りなら良くなります。

しかし、もし輸血をしても良くならない場合は、
また頭の中で出血してる可能性が出てきます。

その時はまた詳しく調べて、
手術等での処置にはなってくるのですが、

出血してるときに出る症状などは、
今は何にも出ていない状態なので、
恐らく輸血をすれば大丈夫ですよ。


そんな説明を受けたので、
また私は心配に...


私:「あの、今日は後から
着替えと飲み物を届けに、
そちらに向かう予定なんですけど、
少しでも面会はできないんですよね?


ダメ元で聞いてみました。

先生:「申し訳ありませんが、
面会はできません。すいません。


ですよね~。笑
分かっていたことでしたが、
やっぱり残念でした。



先生:「他に何かありませんか?

私は、旦那の記憶について聞いてみました。


手術直前からのこと...
2回目の手術したこと...
手術が終わって家族と話しをしたこと...
この全ての記憶がないこと。

術後に、手術や目に関して、
私が答えたことを覚えてなくて
同じ質問をしてくること。

日用品やバックの場所など、
何回答えても、数時間後には
同じ質問をしてくること。


状況を説明して、
先生に聞いてみました。

先生:「そうなんですね。
でも、まだ術後3日目なので、
それは様子をみて大丈夫だと思います。

2回も全身麻酔をしたので、
通常に戻るには少し時間が
かかってるだけだと思います。
徐々にハッキリしてくると思いますよ。


先生からの言葉に少し安心しつつも、
私の不安は正直取りきれませんでした。


輸血をお願いして、
電話を切り、

私も仕事を終えて、
持って行く荷物の準備。

15時頃に出発。


先生から連絡があったこと、
今から輸血をすること、
私からも旦那に説明しておきました。

先生も同じように説明してくれたみたいで、
「さっき奥さんに電話しました。
って先生が言ってたよー!」とのことでした。

このことすらも、
夜には忘れることになるとは...



旦那の輸血は、
16時に始まりました。

でも、普通の点滴のように
病室のベットで行われたので、

スマホも触れて連絡も取れる状況で、
安心できたことを覚えています。


ただ、旦那は...
記憶が混乱していること、
頭の傷口を見たこと、
片目が開かず見えないこと、
そして輸血。

色んな状況が重なったことで、
精神的に少し不安定になっていました。


なんで俺なんだろ。

こんなに頭切られて、
2回手術しても何も良くなってない。
結局なんの手術したんだろ。


私が向かってる中、
こんなLINEが来るように...


目が覚めて起きたら誰も居なかった。
何も覚えてなくて。1人で不安だった。


入院してたことは分かってたけど、
気付いたら俺の頭は包帯だらけで、
ベットに手足固定されてて...

体中から管や線が出ていて、
場所も記憶と変わってたから、
どこの病院に居るのかも分からない、
自分に何が起きたのかが分からなくて。

キョロキョロしたけど、
えりかも誰も居ないし...



旦那が感じていた不安や恐怖。
私はこの時に初めて聞きました。


分かったつもりでいたけど、

私は結局、何にも
分かってあげられてなかった...

そんな自分にショックを受けました。


そして、そんな状況で、
どんなに怖くて不安だったんだろうと、
旦那の気持ちを想像すると
涙が止まらなくなり...

なんて言ってあげたらいいのかが
分からなくなり、

旦那のことを思うと
本当に苦しかった。



病院に向かう途中で、
私はまだ運転中だったので、
あまりLINEを返すことが出来ず。


すると、旦那からは、、、

本当はめちゃくちゃショックだけど、
仕方ないってのも分かってるし、
受け入れなきゃいけない。


ごめんね。

旦那は1人で、
ちゃんと受け入れて
必死に前を向こうとしていました。

何もしてあげられてない自分に、
本当に腹が立ちました。


18時頃に、病院に到着。

旦那からのLINEも
運転中ずっと気になっていたので、

私は荷物を渡す前に、
談話室に寄り、

旦那への手紙を。

荷物に手紙も一緒に入れて、
看護師さんに渡しました。


今、看護師さんに荷物渡したからね。

そうLINEすると、

この点滴さえ繋がってなければ、
どうにかして会いに行くのに!!!


近くまで行きたいだけなのに!
えりかに会いたいだけなのに!


絵文字いっぱいの
明るい旦那に戻っていました。


旦那:「輸血してる時間じゃなければ...
タイミング悪かったよー!


私:「いや、点滴してなくても、
まだオシッコの管とかも繋がってるでしょ。


旦那:「くそー!そうだったー!
俺をこんなにもベットに繋ぎやがってー!


私:「全部外れて歩けるようになったら、
またすぐに飛んでくるからねー!


旦那:「よーし!リハビリ頑張って、
早く全部外してやる!!!



さっきまでの、気持ちが
沈んでいた旦那とは全然違って、
急に明るくなった旦那。

会えなくても、
近くに来るだけで、
こんなに元気になってくれるんだ...


それを実感した私は、
旦那が少しでも元気になれるなら、
出来る限り来ようと決めました。

今の私にできることは、
それくらいしかないし、
旦那の為になることは全てやりたい。

改めてそう思いました。


夜9時頃、
ようやく輸血は終わったものの、
点滴はまだ繋がれたままでした。


旦那が輸血に対して
先生に聞きたがっていたことに、

私が先生からの電話で
言われたことを説明すると...


旦那:「なんでえりかが知ってるの?

私:「今日、輸血の前に
先生からの電話で言われたよー!


旦那:「え?先生から電話あったの?

私:「あったよー!先生からも
奥さんに電話したって聞いたでしょ?
そのこと覚えてない?


旦那:「覚えてない。


私は、やっぱりまだ記憶が
不安定だなー...と感じ、

その時のLINEの
やりとりのスクショを送りました。


私:「この時のLINE覚えてない?

旦那:「え、覚えてない。
俺こんなこと送ってたっけ?



違う部分のスクショを送ってみると、

旦那:「んーこれは覚えてるような
覚えてないような...
ハッキリは思い出せないなぁ。



今日の昼間のことも、
旦那があまり覚えていない状況に、

不安になって焦る自分と...
大丈夫。先生の言葉を信じよう。
と落ち着かせる自分が居ました。


また混乱させたくなかったので、

旦那から何度同じ質問をされても、
私は何度でも同じように答えようと決めました。


つづく。


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【10月29日】

手術日の翌日。

朝8時過ぎに
私は家に帰ってきて、

もう何も考えたくなくて、
そのまま布団に入りました。


3時間ほど寝れたので、
午後から仕事に行くために準備。

この時の私は、
1人で家には居たくない。

仕事でも何でもいいから、
気を紛らわせていたい。

ギリギリの精神状態で、
過ごしていた記憶があります。


お昼を過ぎて、仕事中にも、
旦那からはまだ連絡は来なくて...

私から旦那に大量の
LINEをしていました。

旦那がスマホを
見れるようになった時に、

少しでも明るい気持ちになってほしくて、
色々とふざけたLINEを送っていました。



今日のお昼からは、
普通にご飯が食べれると聞いていたので、
ご飯を食べれるなら携帯も触れるのかな?
って思っていましたが、、、

14時頃まで待っても
連絡が来なかったので、
病院に電話をしてみました。


※看護師さんから、
術後はまだ本人からの
連絡はできないと思うので、
術後の様子は、こちらの病棟の方に
直接電話してきて聞いて下さいね。

と、電話番号を教えてもらっていました。


旦那の様子を聞くと、
普通に目は覚めているんですけど、
お昼前から頭が痛いと言って、
昼食は拒否されて食べませんでした。

痛み止めが効けば、
そろそろ動いたりできると思うので、
連絡が来ると思いますよ。

と親切に色々と状況を教えて頂き...


あんなにお腹空いたって言ってたのに、
ご飯が全く食べられないくらい、
そんなに痛みと闘ってたんだと知り、

ふざけたLINEを
送っていたことを後悔しました。



それからも、
応援のLINEを送り続け...

ついに、17時頃に、
旦那からのLINEが来ました。

旦那からのLINEがこんなにも
嬉しかったのは初めてかもしれません。笑



痛みはいいけど、
水が飲めないのが嫌。


恐らくこれが
言いたいんだろうけど、
まだ上手く打ててない感じで、
誤字ばかりのLINEが届きました。


※実際に届いたのは...
痛みは、いいらけど
水がなかななか飲めないのかいや


必死に頑張って
打ってくれたんだなって思うと、
本当に嬉しかったです。


その後、
数回LINEが来て、、、

18時半には、
手術後、初のごはんです」と、
食事の写真も送られてきました。


どんどん回復してる様子に
安心していましたが...

なんか頭がおかしくて、
動きがゆっくりで変。

と旦那からのLINE。


「看護師さんに言ってみたら?」
と聞いても、

近くに居ないし言えないよー
(近くいなし、いえなあよー L)
と、また誤字だらけの文章。


術後だから、
みんなこんな感じなのかな?
とは思いつつ、、、

その後も、
誤字ばかりのLINEが
続いていたので、

ちょっと心配になり、
また病院に電話して聞いてみました。


すると看護師さんからは、
まだ術後だし、
2回も全身麻酔をしているので、
普通よりも通常に戻るのが
遅くても心配はないと思います。
徐々に良くなりますよ。

との返事でした。

旦那にも、
徐々に良くなるって。
無理せずゆっくりね。

と伝えました。


【10月30日】

手術後2日目。

朝からLINEが来て、
だいぶ誤字がなくなっていたので、
とても安心しました。


9時から抗生剤の
点滴が始まったようで、

その報告なども
こまめに連絡をくれました。


自分の顔の写真が送られてきて、
右目が開かないよー」と。

手術直後から、
右目の瞼はむくんで腫れていて、
色も紫色の状態でした。

でも、私が見た感じ、
術後よりはだいぶ腫れは
引いていたので、それを伝えました。


すると、
目が開いたら見えるってことかな?

今頑張って目を指で少し開けてみたけど、
全然見えないんだけど...真っ白のまま...


とのLINEが来て、
私は一気に嫌な予感がしました。

なにか勘違いしてる?


私:「この前の手術は、
目を治す手術ではなくて、
検査の為の手術だから、
まだ目は見えない状態のままだよ。


旦那:「そうなの?
じゃあ、次は目の手術をするってこと?
もう手術は終わったのに?


何だか会話がかみ合わず...


2回目の手術は、
目を治す手術をしたと思ってる?
と私は予想し...


私:「もしかして2回目の手術のこと?
あれは、目を治す手術じゃなくて、
頭の中に血が溜まってしまったから、
それを取る手術をしただけだよ。


旦那:「え、俺2回手術したの?

私:「そうだよ。覚えてない?

旦那:「知らない。

私:「2回目の手術の後は、
お母さんとお姉ちゃんも
来てたんだけど覚えてない?


旦那:「全く知らない。いつの話?


ここで術後の旦那の記憶が
全く無いことが判明しました。

1回目の術後も、2回目の術後も、
私と話したことも、
義母や義姉が来て話したことも、
全く何も覚えてないことに気付きました。


あれだけしっかり会話したのに、
全く覚えてないんだ...
と少し心配にはなりましたが、

麻酔が完全に切れてなかったし、
まだ朦朧としていた時に喋ったので、
仕方ないことなんだろうな。
と自己解決していました。


旦那は、2回手術したと聞いて、
少し混乱しているようだったので、
あまり今は話さないでおこうと、
話の内容を変えました。


ただ、また午後になって、

旦那:「俺はどこの病院に居るの?

私:「病院は変わってないよ。
でも、病棟の階と部屋が変わったから、
違う場所に居るみたいかな。



旦那:「目が開かないんだけど。

私:「まだ術後だから、少しずつだよ。

旦那:「目が開いたらちゃんと見えるかな?

午前中と同じ質問に、
ちょっと心配になっていました。


看護師さんが旦那の体を
拭いてくれようとしたみたいで、
お尻を見られ、、、

お尻の脂肪腫を見た途端、
ちょっと他の人呼んできます。
って焦って出て行ったらしくて、

他の看護師さんが来て、
お尻はどうしたんですか?
って聞かれたみたいで、

脂肪腫ですけど、
もう外科の先生に診てもらって
手術も決まってます。

と旦那は答え。。。


※このやりとりを看護師が変わる度に、
3回以上も繰り返すことになりました。


これもカルテに書かれてないのかな?
やっぱり情報共有されてないのかな?
とまた少し疑問に思いました。


【10月31日】

手術後3日目。

この日は朝から、
4人部屋への移動。

大部屋に移動できるということは、
少し状態が良くなっているということ。


部屋の移動中に、看護師さんから、
手術2回もしたから、
ちょっと移動が遅くなりましたね。
でも、だいぶ良くなりましたね。

って言われたみたいで...

俺って手術2回したの?
知らないんだけど。
」と
旦那からLINEがきました。

私は正直、さすがに
とても不安になりましたが、
また同じように返事をしました。


そして、部屋を移動した後に、

頭の包帯やガーゼが外されて、
初めて自分の傷跡を鏡で見た旦那。

傷の長さや範囲に
ビックリした様子で、
写真が送られてきました。


傷口を見るのは、
私も初めてだったので、
ちょっと衝撃でしたが、

それよりも旦那の気持ちが心配で...。


検査の手術だけで
こんなことになるんだ。

とショックを受けていました。

検査の手術では、
前のおでこの傷だけだったけど、
2回目の手術で、
仕方なく後ろまで切ったんだよ。


この私の説明で、
また旦那の気持ちを
少し不安定にさせてしまい、
とても反省しました。



手術直前からの記憶がないこと、
手術が終わっても目が見えないこと、
そして大きな傷口。

旦那は、
なかなか受け入れられずに、
だいぶ混乱しているようでした。


記憶などに関して、

どこまでが術後の症状として
大丈夫な範囲なのか、、、

どこからが少し
異常な状態なのか、、、

私にも分からなくて、
不安になっていました。


つづく。



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手術が終わり、
先生から最悪の結果が聞かされ、

私は大泣きしながら、
2時間半かけて帰宅中、、、

私の母からの着信。


コンビニに寄り、
泣きながら電話をして、
もう上手く説明もできず。

とにかく今は無事に帰ってきて。
そう言われて、私は必死に
冷静さを取り戻そうとしていました。


母が報告したみたいで、
叔母からも心配の連絡があり、
大丈夫?ちゃんと帰って来れる?

旦那の心配をしていたはずのみんなが、
いつの間にか私の心配をしてくれていました。


家に帰りたいけど、
帰って1人で過ごすのは、
今の私には耐えられない気がする。

このまま実家に帰ろうかな。


なんて考えながら、、、


旦那の家族にも
ちゃんと報告しなきゃ。

電話じゃ説明できない気がするから、
直接会ってちゃんと伝えなきゃ。


母や叔母と話をしたからか、
急に冷静な自分が出てきていました。


義母にLINEで、

手術は予定通り、
無事に終わりました。


遅い時間に申し訳ないけど、
帰りに寄っても良いですか?


帰りにそのまま
旦那の実家へ行くことにしました。


この時の私は、今思うと、
報告しなきゃという気持ちよりも、
ただ誰かに会いたい。聞いてほしい。
という気持ちが大きかった気がしています。



あまり遅くならないように、
途中から高速に乗り、
夜10時頃には旦那の実家へ到着。


玄関を開け、
義母の顔を見た瞬間に、
私は、また号泣。

そんな私を見て、
全てを悟っているようでした。

義姉も待っててくれて、

私が泣き止むまで、
2人も一緒に泣いてくれました。


そんな2人を見ていると、
私がしっかりしなきゃ。
また冷静な自分が出てきて、

入院中のこと...
今日の手術のこと...
先生に言われたこと...
手術後の旦那の様子...

全てを話しました。


2人とも言葉を失い、
無言の時間が流れました。


義母が、
あの子から直接LINEが来て、
悪性の可能性が高いって聞いて、
それからずっと眠れなくて、

色々調べて、
あの子は40歳まで
生きられないかもしれないって
考えてしまってね。

なんであの子なのって
可哀想で可哀想で...

えりかちゃんにも申し訳ない。
そんな体に産んでしまって本当にごめんね。
できることなら私が変わってあげたい。



みんなで泣きました。

私も、今は泣いていいんだって
思えて涙が止まりませんでした。


実家に着いて、
20分が経った頃、、、

私の携帯に着信が。


登録してない番号でしたが、
嫌な予感がして出てみると、

〇〇さんの奥様ですか?
大学病院の入院病棟からですが...

ご主人の容体が急変しました。
麻痺が出ていて、意識が低い状態です。
すぐに来てください。



もう私は頭が真っ白になり、
泣き崩れ、取り乱してしまいました。


電話の内容を2人に伝え、
普通の状態じゃない私を見て、

義母や義姉も焦って、
絶対大丈夫!信じよう!
一緒に行くからね!


と言ってくれて、
運転して病院まで
連れて行ってくれました。


22時半には出発して、
高速に乗って向かう途中に、

脳外科執刀医M先生から電話。


手術した場所とは
別の場所から出血していて、
非常に危険な状態です。

意識障害があって、
このままだと致命的です。


今から緊急手術をしても良いですか?

本当はこちらに来てもらって、
同意書を書いてもらうのですが、
遠くから向かってると思うので、
それだと間に合わないので、


電話での説明だけで、
口頭で同意をもらっても良いですか?



私は、
はい。すぐにお願いします。
よろしくお願いします。


義姉が急いで運転してくれて、
深夜0時に病院に到着。


7階へ上がり、
看護師さんに状況を聞くと、、、

23時から手術に入っています。
そこから5~6時間かかります。



20時半頃の確認で、
反応や状態に少し異常が出て、

それから21時頃には、
左側に麻痺が出て、
意識が低い状態になりました。

それで、先生の判断で、
CT検査などをしたところ、
出血していることが分かりました。



もう私はそれを聞いただけで、
更に旦那のことが心配で心配で...


私が病院を出たのは20時過ぎ。

あの時に、
旦那から呼ばれているような感覚がして、
何だか帰っちゃいけない気がして、
しばらく帰れなかったことを思い出しました。


私が病院を出てすぐに異常が...

あの時、旦那は必死に私に
何か伝えようとしてたのかなと思うと、

帰らなければ良かった」と
本当に後悔しかありませんでした。


看護師さんから渡された同意書。
あとで先生から
直接説明を受けると思いますが、
目を通しておいてくださいね。



そこには、
急性硬膜外血腫という診断名が。

旦那の状態や、
危険性・合併症に関することが
色々と書かれており...


意識障害と左半身麻痺を認めます。

術後も、
新たな神経症状の出現や
半身麻痺・意識障害が
持続することがあります。

そう書かれてありました。


病院に向かう車の中...
緊急手術の最中...

私は本当に
色々なことを考えていました。


助かってほしい。
絶対生きてほしい。


そう願い続けながらも、
本当に辛そうで苦しそうな
術後の旦那の姿を思い出し...


もし今、助かっても、
今後は治療でまた辛い思いをする。
そしてそれに耐えても治らない。

生きてほしい、
助かってほしい。

という願いは、
私の望みであって、
私の勝手なエゴかもしれない。


旦那が辛い思いをせずに
楽になれるのならこのまま...

そうすれば、
私だけが辛い思いをすればいいだけ。

旦那が苦しむくらいなら、
旦那を失って、私だけが苦しめばいい。

なんて考えてしまった時間も
正直ありました。。。


でも、
そんなことを考えている自分にも
耐えられなくなり、

泣いたり、ボーッとしたりを
何度も繰り返していました。


旦那を失うかもしれない恐怖。
病名を断言された絶望感。


こんなドラマみたいなこと、
テレビで見るような状況って
本当に現実に起こりえるんだ...

なんていう、
地に足が着いてないような
フワフワした感覚の中に
居る時間も多々ありました。



義母や義姉が寒がってる中、
私の体は何故か熱くてたまらず、

窓のところに
風に当たりに行きました。


外の冷たい風を浴びて、
真っ暗な外を眺めている内に、

何故だか分からないけど...


大丈夫!絶対大丈夫!
絶対助かる。絶対死なない。
まだまだ一緒に居たい。

フッと気持ちが急に軽くなり、
絶対私がどうにかする!

もし麻痺が残っても、
目が見えなくなっても、
私がどうにかする。


だから絶対に生きててほしい。
もう生きててさえくれれば
何だっていいから。


私のエゴでも何でもいい。
お願いだから生きて。
どんなことがあっても
私が幸せにする。

絶対に私が長生きさせる!
絶対に死なせないから。



急にすごく不思議な感覚になり...

その瞬間、
私の覚悟が決まりました。

今でも、あの時の感覚は
本当に不思議です。


そこから、
自分でもビックリするほど、
自分の言動が変わり、

それからは全く泣かずに、
不安や恐怖も顔から
消えていたと思います。


手術が始まり、
6時間が経過...

朝方5時になっていました。

看護師さんが、
手術が終わりましたよ。
って伝えにきて下さり、
本当に安心しました。


先生と看護師さんが、
旦那をこちらまで運んできてくれて、

無事に終わりましたよ。
心配しましたね。
もう大丈夫ですからね。


先生は命の恩人だ...
先生が救ってくれたんだ。

1日に2回も手術してくれて、
こんなに長い時間...
そして昼間の手術に加え、
真夜中から朝まで...
本当に感謝の気持ちでいっぱいでした。


旦那に声を掛けると、
すでに目が覚めていて、
私を見てすぐに左手を出して
手を強く握ってきました。

私は、左手がちゃんと動いてる
という安心感でいっぱいでした。


義母や義姉を見た旦那は、
なんでいるの?
朦朧としていた目がパッチリ開いて、
かなりビックリしていました。


顔色も良くて、
肌の色もキレイで、
意識もしっかりしていて
すごく落ち着いている旦那を見て、
本当に安心しました。


それと同時に、、、

最初の手術後とは
旦那の様子が全く違い過ぎて、

やっぱりあの時は、
何かおかしかったんだな。
って思いました。


その後、
先生からの説明を受ける為に、
義母も義姉も連れて別室へ。


出血していた時の
画像を見てビックリ。

3分の1以上、半分ほどまで、
出血が広がっていました。

術後の画像を見ると、
それが跡形もなく、
本当にすごくキレイに出血が
なくなっていました。

何度も何度も
M先生にお礼を伝え...


1回目の手術では、
あまり傷口が目立たないように、
生え際半分だけを切ったのですが...

2回目の手術では、
仕方なく後ろの方まで
大きく切りました。



しかし、今回の出血は、
手術をした場所とは違う部分で、
私も初めて見たケースです。

正直、原因が分かりません。

考えられるとするなら...


と、色々と詳しく
説明して頂きました。


麻痺があった部分も
全て良くなってるので、
安心して大丈夫ですよ。


もう本当に安心しました。


その後、
旦那の病名や種類について、

義母や義姉にも、
説明くださって...


神経膠腫、ステージ、進行がん
、治らない、悪い状態という言葉...

それを聞くだけで私は、悪夢が
フラッシュバックしてくるような感覚。

でも、「絶対大丈夫!」
もう覚悟が決まっている自分。


色々な感情になりながら、
悪い状態というのは、
グレード4の可能性が高いんですか?


怖くて聞けなかったとを聞いてみました。


すると、先生は、
私の泣きはらした姿に気付いていて、

それはないですよ。

本当は結果が出ていないのに、
私がこんなことを
言ってはいけないんですけど、

多分奥さんが色々と
悪い想像ばかりしてしまって
とても辛そうなので...

私たちは2か3と予想しています。

3と4ではかなりの差があるので、
4ではないですよ。



“グレード4ではない”
と言ってくれただけで、
私はものすごく前向きになれました。

そして、

平均余命なんて関係ない!
3年とか5年じゃ旦那は死なない。

10年、15年、
いや20年、絶対に生きれる。


また改めて覚悟が決まりました。


説明を終え、
1人ずつ面会できる
許可を出してくれました。


まず私が行くと、、、

左目しか開いてないし、
言葉もゆっくりだけど、

意識はハッキリしていて、
全く辛そうじゃない穏やかな旦那でした。


私:「大丈夫?痛いとこない?」 

旦那:「うん。大丈夫。痛くない。

私:「頑張ったね。お疲れ様。
もう大丈夫だからね。



旦那:「お腹空いた!

思わず笑ってしまいました。

旦那も笑いながら、
次のご飯いつ?早く食べたい!

もうその姿に、
私はかなり安心して、
うれし涙が溢れました。


その後、義母や義姉も旦那と面会。

旦那は義母に、
迷惑かけて心配かけてごめん。
病気になってごめんね。

と言ったみたいで、
戻ってきた義母は泣いていました。

そんな言葉も言えるほど、
意識はしっかりしてるだなと
私は全てを前向きに捉えていました。


また最後に、
帰るね。またすぐ来るからね。
と私が言いに行ったら、

また明日ね。ありがとう。
と笑って答えてくれました。


看護師さん達からも
色々と優しい言葉を掛けて頂き、
旦那を任せて病院を出ました。

すでに朝6時を過ぎ...
外は少し明るくなっていました。


私の感情は落ち着いていて、
色んな覚悟が決まっていて、
穏やかな気持ちで帰れました。


つづく。



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手術が終わり、
先生からの説明を待ちました。


正直、私は、
悪性の可能性があると言われてから...

「胚細胞腫」や「神経膠腫」
という病名を聞いてから...

ネットでかなり調べていました。


どちらの病名でも悪性腫瘍。
そして、予後の悪い種類が多い。


その情報だけを見てると、
悪い方にしか考えられなくなるので、

まだ検査してみないと分からない!
良性の可能性だって、まだ全然ある。

と旦那や自分に言い聞かせて、
必死に前向きに考えていました。


でも、その時の私は、
それぞれのグレードや種類、
そして予後や生存率について、
だいぶ頭に入っている状態でした。


看護師さんに呼ばれ、
別室に案内されると、、、

そこには、
脳外科執刀医のM先生と、
脳外科主治医のE先生の姿が。

恐る恐る席に着くと...


術前と術後の画像を見せられて、
今日の手術の説明。

検査に出すために、
腫瘍の一部を取りました。


この腫瘍が無くなっている部分が
今日の手術で取った部分です。


CT画像の腫瘍部分には、
数ミリ程の穴が開いたような感じで、
腫瘍が消えていました。

でも、旦那の腫瘍は
直径3~5センチくらい。

数ミリが消えても、
まだかなり残っている状態でした。



そして、先生が、
手術で取れる部分は取りたかったけど、
ちょっと取れる状態ではありませんでした。

視神経に腫瘍が
完全にくっついていました。

そして、最初は視神経の中から
腫瘍ができてしまったようで、
そこから下垂体の部分まで
大きくなっていることが分かりました。

下垂体から出来た腫瘍が
視神経を圧迫しているだけなら、
目の回復もあるとは思いますが、


視神経からできた腫瘍なので、
もう視神経にとってはだいぶ悪い状態かと...



少し難しい話が続きましたが、、、

思っていたよりも悪かった。

私はそう捉えていました。


そして、先生は説明を続け...

今日直接見た感じ、
神経膠腫だと思います。

神経膠腫には、
グレードが4つあって、
1の場合は摘出すれば治ります。

しかし、旦那さんの場合は、
1という可能性は無いと思います。

グレード2~4。
この内のどれかになります。


その場合だと、
治ることはない癌です。

治療をしても、
必ず進行していく癌なので、

例えば、今は
グレード2だとしても、
年々3、4と進んでいきます。



もうこの時の私は、
何を思ったのか覚えていません。

ただただ絶望。


治らない。
進行していく。


その言葉が頭の中で
繰り返されていました。


その中でも、
どのグレードに近いんですか?

と私が聞くと、

それは1週間後の結果で分かります。
まだ、ちゃんと答えることはできないけど、
だいぶ悪いと思ってた方が良いと思います。


もう私は先生の言葉に、
どんどん絶望を感じでいました。


悪いということは、
グレード3かグレード4...

神経膠腫の場合、
3の平均余命は3年。
4の平均余命は2年。


その情報をすでに知っていた私は、
もう頭がおかしくなりそうでした。


完全には治らなくても、
治療は出来るんですよね?


私は震えながら聞いていました。

もちろん治療はしていきます。
放射線と抗がん剤治療で、
悪い場合だと2年は続きます。



2年治療して、
余命が2年。。。

私は最悪のパターンを考えていました。


旦那が入院して手術までの1週間、

コロナのせいで、
全てにおいて制限があり、

入院したら、会えないし
話しもできない状況ということが
痛いほど分かっていたので...


その大事な2年間を
会えずに離ればなれで
過ごすことになるのか...

そう考えると、
現実逃避したくなる程でした。


先生に何を聞いても、
悪い返事しか返ってこないので、

私はもう、
先生に何も聞けない状態に
なってしまいました。


そして、何より、
旦那の精神状態が心配。

本人には悪いという結果は
言わないでもらいたいです。

予後のことや、
絶対治らないとか、
そういう言葉は本人には、
言わないようにしてほしいです。

それを知ってしまうと、
治療を受けない、家に帰るって
言い出すと思うので。


私はそれだけは、
必死にお願いしていました。


それは大丈夫です。
患者さんの治療に対する
ヤル気を失うようなことは
絶対に言いません。

余命なんてものは、
正直誰にも分からないし、
そんなことは一切言いませんよ。


先生は優しく話をしてくれてるけど、
その言葉の全てが私には悲しかった。


この後、面会して良いので、
旦那さんに会って帰ってくださいね。


そう言われて、
旦那の居る部屋に案内されました。


あんなに部屋での面会は
特に禁じられていたのに...

面会許可が出るくらい悪いんだ...

という状況を
私は嫌なほど感じていました。


旦那は朦朧としながらも
目が覚めていて、
少し会話もできる状態でした。


頭は包帯とガーゼで巻かれていて、
体からは数えられない程の管が...

病衣1枚を羽織ってるだけで、
ほとんどめくれて裸の状態でした。

私は、病衣を整えながら、
手術終わったよ。
お疲れ様。頑張ったね。



私は旦那の前では
絶対泣きたくなかったので、
その言葉を発するだけで精一杯でした。

顔を見るだけで、
涙が溢れてくる状態。

でも、旦那には
絶対バレてはいけない。


旦那は目を閉じながらも、
頭が痛い。」を繰り返していて、
すごく辛そうな状態でした。

しかし、看護師さんからは、
痛み止めは術後に入れてるので、
あと4時間は入れられません。

と言われ...


でも、どんどん痛みが
かなり増してきてるようで、
意識が朦朧としながらも、
頭が痛い。頭が痛い。

ずーっと繰り返しながら、
私に訴えてきました。

えりちゃん頭が痛い。


それを聞いてた看護師さんも、
ごめんねぇ。
あと4時間は我慢なんですよ。



痛みに耐えられず、
頭を触ろうとしたり、
体を動かしたりするので、

申し訳ないけど、
ちょっと危ないので、
手足を固定させてもらいますね。


看護師さんはそう言って、
両手両足を固定し始めました。


手足が動かせない旦那は、
更に大きい声で、
頭が痛い。痛い。痛い。

そう何度も繰り返して、
本当に辛そうで...


さすがの私も我慢しきれず、
涙が止まりませんでした。

こんなに痛くて辛い思いをしてまで、
治療を頑張ろうとしているのに、
それでも治らないなんて...

そんな可哀想なことあるの?

こんなに頑張ってるのに...


こんなに頑張っても治らないなら、
もうこんな辛い思いはさせたくない。
このまま連れて帰りたい。

旦那に残されている大事な時間。

もう頑張らなくていいよ。
そう言ってあげたい。

正直、私はそう思っていました。


目の前には、
痛そうで辛くて苦しむ旦那。

看護師さんが、
30分ごとに状態確認をしているので、
ちょっと奥さんはこちらにすいません。

と少し離れた所に案内されました。

右手で握ってください。
左足を動かしてください。
ちょっと光を当てますね。
など、体の反応をみているようでした。


すると、
看護師さんが急に慌てだし、
他の看護師さんを呼び、
何だか慌ただしい雰囲気に。

私は聞こえてくる声に、
何事かとビックリしました。


看護師さんたちが
すぐ先生を呼んで!
と先生に電話をし始め、

右目の瞳孔が反応しません。
すぐに来てください。



それを聞いた私は、
え?それは手術前からだけど...
って思っていたら、

先生も、
それは術前から経過観察中なので、
そのまま経過を見てください。

と落ち着いた答え。


看護師さんたちは、
え、そうだったんだ。ビックリした。

そして、私の所に来て、
右目は見えてないんですか?
と看護師さんたちが聞いてきました。


はい。見えてません。

そう答えながらも、
やっぱり連携が取れてないのかな...
と不安になりました。

入院の階数が変わったとしても、
カルテなどで情報が引き継がれないのかな?
と疑問に思いました。


旦那は辛そうにしながらも、
あまり目を開けなくなり、
このまま眠りそうだなー。
という状態に。


もう私も旦那の姿を見るのが、
だんだん耐えられなくなり、

じゃあ、帰るね。また来るね。
ゆっくり寝てね。

と声を掛けて部屋を出ました。


部屋を出た途端、
もう抑えていた涙が溢れだし、

看護師さんに気付かれ、
心配して優しく声をかけてくれました。


どんなことでも話を聞きますから。
いつでも看護師を頼ってくださいね。


奥さんが倒れないように
絶対に無理はしないでくださいね。


看護師さんの優しさに、
すごく救われていました。

でも、看護師さんは
旦那の病状をあまり知らず、
そこはやっぱり少し疑問でしたが...



ありがとうございます。
よろしくお願いします。

とだけ伝え、私は病院を出ました。


車に乗った瞬間、
私は声をだして泣きました。

無理。嫌だ。耐えられない。
もう自分が自分じゃなくなるほど、
感情を抑えきれずに泣き続けました。


その間に、
母や義母や叔母や友達、
旦那の手術後を心配している
みんなからの連絡が入っていました。

私はそれも返せる状態ではなく、
頑張って家に帰らなきゃ。
そう思っていました。


でも、帰ろうとすると、
ものすごく旦那から呼ばれているような、
帰っちゃいけないような不思議な感覚がして、
しばらく帰れずに駐車場にいました。


夜8時を過ぎ、
さすがに帰ろうと思い出発。

出発する時も、
旦那と離れたくないという気持ちで、
もう泣きながら運転してました。

あんなに2時間も大泣きながら
運転したのは初めてでした。



つづく。



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【10月28日】

いよいよ手術当日。

旦那は、朝7時から、
血圧や体温を測り、尿検査も。

そして、8時から、
水分制限が始まり...
(※食事制限は前日の夜からでした。)

9時から点滴が開始。


旦那は、
だいぶ明るく元気に戻ってて、
とても前向きなLINEが来ていたので、
私はすごく安心していました。


そして、私は9時頃に出発。

手術の開始時間は、
旦那は2番目なので、
1番目の人が終わり次第。

だいたい13時前後で、
早くて12時頃から。

奥さんは12時までには
来てた方が良いかな。


そう言われていたので、
12時までには着く予定で出発しました。


向かってる途中、
11時からに早まるかもって
看護師さんに言われた。

って旦那からのLINEが入り、

まだ全然着かないよー!と焦り、
慌てて途中から高速に乗りました。

そしてギリギリ11時前に到着。


もうすぐ呼ばれます。
と言われ続け、、、

そこから2時間40分も
エレベーターの前にあるソファで
ずーっと1人で待たされ、、、

呼ばれたのは結局13時半。


旦那さん移動します。
エレベーターで会えますからね。

と看護師さんに言われて待っていると、

看護師さん2人に連れられて、
点滴しながら旦那が歩いてこちらへ。

そのままみんなで
エレベーターの中へ。

他の人も乗ってて、
かなりギュウギュウ状態で、
旦那とほぼ会話もできず。


入院している6階から、
手術室がある4階に降りて、
エレベーターを降りた瞬間、
奥さんはここまでになります。

もう私は、
えーーー!
2時間半も待たされて、
たったこの1分だけー!?

って正直心の中でツッコみました。笑

頑張ってね。待ってるね。
と旦那に声をかけて、
看護師さんに連れて行かれました。


そして、私は看護師さんに
コロナの関係で、
手術室前の家族控え室は
今は使えないんですよ。


手術後は7階での入院になるので、
7階の談話室で待機して頂きます。


手術が終わったら、
少し面会はできるとは思いますが、
階数が変わるとやり方も違うので、
7階の看護師さんに従ってください。


6階にある荷物を、一旦全て
奥さんに預けても大丈夫ですか?


と言われ・・・


私は7階へ移動。

談話室に入ると、
手術待ちと思われる家族が4グループ。

え、これなら
それぞれの手術部屋の控え室で
別々に待ってた方が
感染リスクは低くないかい?

と、かなり疑問に思いました。


そして、コロナの為、
説明や手術の付き添いは
1人までって言われていたのに、
他の家族は2人~4人ずつ居る。

1人で待つのは、私だけでした。笑

もうツッコミ所が多かったけど、
仕方ないので私も待機を始めました。


手術が終わるのは5時間後。
18時半までの予定でした。


看護師さんが旦那の荷物を
全部持ってきてくれたので、

私はそれを、
ゆっくり整理して時間を潰しました。

いつもの几帳面な旦那とは思えないほど、
バックの中身がグチャグチャで...

キレイに詰めてないから、
持って行った時の倍くらいに増えてる感じ。

それを見て、
ちょっと心配にはなりましたが、
そのお陰で1時間くらい経ちました。


それから、ひたすら待ち。

また更に2家族くらいが増え、
談話室の密集度にビックリ。


17時頃になり、、、

他の待ってた家族が、
もうすぐ手術が終わって、
こちらに移動して来るので、
エレベーター前でお待ち下さい。

と呼ばれていました。


その後、手術を終えた患者さんが
エレベーターから降りてきてました。

エレベーター前で、
声をかけていた家族。

1分も経たない内に、
じゃあ、ご家族はここまでになります。
分かりました。宜しくお願いします。
という会話が聞こえてきて、


えーーーー!?
手術が終わっても、
それだけしか会えないのー!?

心の中で叫びました。笑

旦那が入院してからずっと、
私は更に、コロナを恨んでました。

もしコロナじゃなかったら...
何度も何度も想像してしまいました。



そして、いよいよ18時半。

他の家族は、
すでに帰っていて、

待っているのは、
私1人になっていました。

もうすぐ終わるので、こちらの
エレベーター前でお待ち下さい。

と、看護師さんに言われ待っていたら、

他の看護師さんが
たまたま通りかかって、
多分術後CT撮ってるはずだから、
あと20分はかかるはずですよ。

と言われ・・・

時間や内容の違いに
何度も振り回され過ぎて、
私はちょっと疲れていました。


あー私も1分しか会えないのかー...
なんて考えながら、
エレベーターの階数表示を
見ながら待っていると、

案内されたエレベーターとは全然違う、
だいぶ遠い逆側のエレベーターから
旦那が運ばれてきました。


そっちのエレベーター前で、
先生が私を探していたみたいで、
遠くに私を見付けて、
こちらまで運んできてくれたようです。

さっき案内してくれた看護師さんに、
看護師さん、なんでよー!?
ってまたツッコみたい気持ちでした。笑



先生から、
手術は全て予定通りに
無事終わりましたよ。
もう意識はあるので、
声を掛けてあげてください。

と言われ、

旦那に声を掛けると、
うっすら目を開けて、
私が分かっているようでした。


頑張ったねー。お疲れ様。
そう声を掛けただけで、

じゃあ、部屋に運びますね。
と言われ・・・

私は思わず、
もう面会はできないんですか?
と聞いてしまいました。


すると、看護師さんから、
先生から面会の許可は出てるんですけど、
その前に先生からの説明があるみたいなので、
少しお待ちください。
」と言われました。


私は何だかすごく嫌な予感。


今日は説明は無くて、
1週間後の検査結果が出てから、
また呼びますって言われてたのに...

それに、他の家族は
一瞬しか会えてないはずなのに、
なんで私だけ面会の許可が出てるの?


自分の中で、
必死に誤魔化していた
不安や恐怖が溢れてきて、
もう動悸が止まりませんでした。

そして、5分後に、
看護師さんに個室に案内され...


つづく。



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【10月27日】


深夜3時に寝て、
朝5時には採血で起こされ、
旦那は寝不足で疲れ果ててました。

しかし、朝から、
お尻の脂肪腫を見てもらう為に、
形成外科を受診。


そちらの手術は、
11月11日に決定。

形成外科の担当医T先生は、
とても優しくて面白い人だったみたいで、
旦那も安心していました。

脂肪腫の方は、
普通に簡単な手術をして
全て取れば問題ないとのことで
とても安心できました。


もっと早くに受診してもらってたら、
明日の頭の手術の日、全身麻酔をしたついでに、
お尻の方も取ってしまえたんだけど...

もう明日は予約で埋まってるから、
私が無理なんですよ。すいません。

お尻の手術でも
全身麻酔をかけてあげたいけど、
明日の手術で1度全身麻酔を使うから
すぐ2回目をするのは、
体への負担が大きくなるから、
申し訳ないけど局所麻酔になります。

でも、退院してまた来るのは大変だろうから、
手術は入院してるに終わらせた方が良いよね。
早めに予約入れて入院中に終わらせるようにするね!
11日だったら、まだ入院中かな。
」とのことでした。



旦那も私も、
えーーー!それなら、
受診の予約を早く入れてほしかったー!
というか、お尻の手術も一緒に出来るほど、
頭の手術は簡単なものなの?


退院してしまう前に早めに予約を入れて、
11月11日に手術するってことは、
その後くらいには退院ってことなの?


色々と疑問だらけでしたが、
もう仕方ない。先生に任せよう。
という気持ちでした。



その後は、
心臓の検査をしてくれた女の先生が来て、
心臓は何も異常なし。
少し小さいけど元気に動いています。
子供の頃からの疾患も無いです。
」との
結果説明があったみたいで一安心。


そして、
脳外科主治医のE先生からは、
首から下には何も異常なし。」との
結果説明があり、更に安心できました。


でも、その後、
内分泌内科の担当医U先生が来て、
扁桃腺の大きさが気になるから、
一度検査してもらいましょう。
」とのこと。

首から下は異常なしだったけど、
そこに扁桃腺は
含まれてなかったみたい。笑


旦那も私も、
「また検査かー!」
っていう気持ちになったけど、

「ここまで全身調べたなら、
もうこの際とことん検査してもらおう!」
という気持ちに切り替えました。


先生達からの説明は
15時からの予定だったので、
私は、12時過ぎには出発。


私が病院に向かってる時に、
麻酔科の先生などが説明に来て、

次から次に同意書を渡され、
私が着く頃には、8種類もの同意書が。

旦那には、内容も多くて、
難しくてよく分からないから、
奥さんが来てからサインして出します
って言ったみたいで、
すでに疲れ果てていました。


私が到着して、
30分ほど別室で待たされ、

説明の部屋に行ったら、
旦那の姿もあり、

「大丈夫?」と声をかけると、
笑顔だけどボーッとしてる様子でした。


脳外科執刀医のM先生。
脳外科主治医のE先生。
内科の担当看護師さん。


この3名が揃って、
説明が始まりました。


入院してから撮った、
CT画像やMRI画像、
血液検査の結果を見ながら、
様々な説明を受け...

旦那に出ている症状についての話に。


まず、1番影響しているのは、
尿を溜める指示を出す
ホルモンが出ていないので、
“尿崩症”と言って、
尿が大量に出てしまう病気です。


水分が出た分、水分不足となり
常に喉が渇く状態です。


現在は、1日に
5リットルの尿が出ている。
だから、それ以上の水を
ちゃんと飲まないといけない。


これは今後、薬で調整していきます。
とのことでした。


もう数年前から、
飲む量がかなり多かったので、
その原因や理由が分かって、
全てが繋がり、とても腑に落ちました。


大量に飲んだから出るのではなく、
大量に出るから喉が渇く。

そこが私たち勘違いでした。


そして、翌日の手術の内容など。

おでこの生え際を切って、
そこから内視鏡で腫瘍の一部を取る。


手術は全部で5時間くらい。

その後、1週間後に
検査結果が出て病名や治療方法が決まる。


というような感じで、
詳細説明が続きました。

説明の間、
終始ボーッとしていた旦那。


先生がそんな旦那の様子を見て、
元気が無さそうに見えるけど、
それも全てホルモンが出てないからなんですよ。
今後ホルモンは、薬や注射で足していくので
体も気持ちも元気になれますからね。


昨日の夜、U先生に、
胚細胞腫で悪性の可能性がある
って言われたみたいで、
そこから落ち込んでしまって...

って私が説明すると、


あーそうだったんですか。
今はネットですぐ調べられるから
悪い情報も目にしてしまうからね。


でも、まだ何も分からないから。
でも、僕は胚細胞腫ではなく、
神経膠腫という腫瘍かなって思ってます。

ってサラッと言われ、、、

その場合の治療などを聞くと、
悪性の場合は、
放射線と抗がん剤での治療になります。

病名やグレードによって全然変わるけど、
期間は半年~2年くらいです。


私はショックを隠しきれず...


下垂体腺腫で良性の可能性が
高かったんじゃないですか?
」と
私が少し焦ったように聞くと、

いや、まだ検査してみないと
何も分からないからねー!
」と
軽く流された感じでした。


そして、視力の話になり。

目は見えなくなってて、
今では左目の半分しか見えてない状態です。


その見えてない部分を治すというよりは、
今見えてる部分を守るという目的になります。


見えない部分を治す為に手術して触るのは、
あまりにもリスクが高いんです。


今見えてる部分も全て見えなくなって
完全に失明するというリスクを考えると、
その選択肢は選べません。
」との説明。


もう正直、私はそれだけで、
どん底に突き落とされた感覚でした。

もう目は治らない。
私はそう解釈しました。


そして、それを
聞かされた旦那が心配。

しかし、旦那は何だか上の空で、
先生の話が入ってきてない様子でした。


色々な難しい説明が終わり、
最後は緩い雰囲気での会話がありました。

そこで、形成外科のT先生から
言われたことを伝えると、


いやいや、頭と脂肪腫の手術を
一緒にするなんて考えられないよ。
形成外科の先生は何を考えてるんだろ。


んなら、形成外科での手術は、
脳外科での手術や治療が終わって、
退院してから、別で外来で来た方が
本当は良いくらいだから。


と、脂肪腫の手術に対しては、
少し否定的な意見で困惑しました。



先生たちとの話が終わり、
次は、手術の準備について
内科の看護師さんからの説明。


看護師さんと立ち話をしていると、
内分泌内科の担当医U先生が走ってきて、

説明は終わりましたか?
体調は大丈夫ですか?


とりあえず座った方が良いです。
昨日から眠れてないせいか、
今朝は血圧が更に下がっていて、
上が80しか無いんですよ。
フラフラしませんか?


今朝は尿量も更に増えてて、
朝1回で1リットルも出てるんです。


体重も58キロまで減ってて...
※入院前は63キロくらいでした。

と、U先生からの報告に、
私は不安になり、、、


説明中もボーッとしてる感じでした。
と私が伝えると、

今の体調じゃ、
そうなると思います。


これは病気からではなく
精神的なことが原因だと思うので、
この後の時間は、少しゆっくり
2人で過ごして大丈夫ですよ。


と、面会の許可を出してくれました。


病室には入れないし、
他の人が居る場所には行けないけど、
誰も居ないソファで、
ゆっくり色々と話しをしました。


旦那は終始、
元気が無い様子でしたが、

一緒に同意書を見てサインしたり、
旦那の気持ちをゆっくり聞いたりして、
1時間半ほど一緒に居ました。

翌日に手術を控え、
先生たちからの説明や、旦那の体調で、
離れるのは不安でいっぱいでしたが、
仕方ないことなので、私は病院を出て帰宅。


でも、その後、
旦那は少しスッキリして、
気持ちを切り替えたみたいで、

手術の準備や、
病室移動の為の準備、
実家家族への連絡、

だいぶ明るくなった様子で
過ごしていて私も少し安心しました。


やっぱり直接会って、
ちゃんと顔を見て話すことが
1番なんだなって確信しました。


そして、次の日は...
いよいよ手術当日。


つづく。



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【10月26日】

 旦那が入院して6日目。

この日も朝早くから様々な検査。


採血は、毎朝5時に起こされ...

CTやMRIなんて、ほぼ毎日...
一体何回撮るの?って
ちょっとビックリする程の回数でした。


検査の数が想像よりも多くて、
結果を聞くのが
私は少し怖くなってました。


お昼頃に、内分泌内科の
担当医のU先生
が病室に来て、

明日はお尻の脂肪腫の方で、
形成外科の予約が入ってるみたいだけど、

31日に退院だから、
お尻の脂肪腫の方は退院後に
地元の病院に行ってもらうことになるかな。

って言われたみたいで、、、

え?聞いてた話と全然違うけど!
先に地元の病院に行ったら、
紹介状出されてこっちに来たんだけど...

しかも、31日に退院!?
28日に検査の為の手術で、
しかも頭を切るのに、
31日には退院できるの!?

もう旦那も私も謎だらけでした。


旦那の判断は、
U先生は内科の先生だから、
多分他のことは何も分かってなくて、
さっき言ってたことは全部間違ってるはず。
もう今のは聞いてないことにして、
信じないようにしとく。
」でした。笑


この辺りから、
先生たちや看護師さんたちの
連携が全く取れていないことに、
少しずつ気付き始めていました。



手術の説明を翌日に控え、
私にも先生から時間の連絡があったので、

今日は明日に備えて早めに寝ようか。
明日は一緒に説明を聞くから少し会えるね。

なんて話をしてたのに...


消灯前の夜8時過ぎ頃。

脳神経内科の担当医S先生が、
急にフラッと病室に来たみたいで、

検査結果を色々見たんですけど、
腫瘍は胚細胞腫である可能性が高くて、
悪性の可能性も高いです。


その場合は、
手術では腫瘍は取れないので、
放射線と抗がん剤での治療になります。


私が今まで見た人の中では、
何人かは良くなってるので、
頑張って治療していきましょう。


首から下への転移などは、
無かったのでそこは大丈夫ですよ。


って、急に軽く言われて
すぐに去って行ったみたいで、
旦那からすぐに連絡が来ました。

私も旦那も、
突然のことで頭が真っ白。


腫瘍は下垂体腺腫ってやつで、
良性の可能性が高くて、
鼻から取れる腫瘍じゃなかったの?

そりゃもちろん、
悪性の可能性も無いとは
まだ言えないって言われてたし、
その為に検査をしてた訳だし、
悪性を考えてなかった訳じゃないけど...

先生たちの言葉や雰囲気から、
手術さえ乗り越えれば
全て良くなるって信じてたのに。


もう私も一気に不安になりました。


しかしその何十倍も、
旦那はかなりの恐怖を
感じてしまったようで、、、

かなり落ち込み、
全てをマイナスな方に考え、
ネット検索して悪い情報ばかりを見て、
精神的に急に不安定状態に。


生まれて初めて
“死ぬかもしれない”という現実に立たされ、
治療しても余命宣告があるなら、
もう治療したくない。家に帰りたい。


消灯時間を過ぎたため、
電話で直接話すこともできず、
LINEで送られてくる不安そうな言葉。


もう私は、
病気のことよりも、
旦那の精神状態の方が心配で。

頑張ろうと思ってたのに。
入院も検査も頑張ってたのに。
今まで楽してた罰かな。
自分が癌になるなんて想像してなかった。
治療頑張っても生きれないなら意味ない。

帰りたい。
会いたい。
ごめんね。
もう無理かも。

私から送る言葉は
もう全く見えていないほど、
旦那からの不安な言葉が
次々に送られ続け...

もうこの時の旦那からのLINEを見るだけで、
今でも涙が溢れてきます。


そして、
スマホの電源が切られました。

LINEしても既読にならず、
電話してみたら電源が切れている。

私は更に不安になり、
病室を抜け出したりしてないかな。
変なこと考えてないよね。
もう考えれば考えるほど心配で不安で...


電源が切れて1時間が経つ頃、
さすがに心配で耐えられず、

病院に電話をして、旦那が入院している
ナースステーションに繋いでもらいました。


看護師さんに事情を説明して、
病室に居るかを確認してもらいました。

旦那さんは、
ちゃんとベットの上に居ましたよ。
安心して大丈夫ですよ。

ただ眠れてないようで、
ボーッとしてる感じでした。

先生に急に
そんなこと言われたら不安ですよね。

今日は私たちも気を付けて、
朝まで様子を見ておきますね。


看護師さんの優しい対応に、
とても安心しました。


深夜0時を過ぎた頃、
旦那からLINEが来ました。

私はそれだけで安心できました。


しかし、
旦那の感情は不安定なままで、

今度は、
イライラしている言葉が
次々に送られてきて、

お前には分からん
余計なことはするな
もうどうでもいい
どうせ治らない

私が送る励ましの言葉に対しても、
なにを根拠に言えるわけ?
適当なこと言うな
入院したことないくせに
病気になったことないくせに
どんだけ耐えてると思ってる?

普段の旦那からは
信じられないような言葉に、
私も何て返事をすればいいかの分からず。

旦那は、不安と恐怖から、
ここ数日の入院のストレスを
爆発させてるような感じでした。


私が返事をすればするほど、
怒りが増してるように感じたので、

すごく心配で不安だったけど、
返事をするのをやめました。


すると、
深夜2時過ぎに、
旦那からの長文LINEが。

反省と謝罪と、今の気持ち。


旦那の苦しみ、葛藤や後悔が
痛いほど伝わってきて、

毎日毎日の検査と、
次々に色々な先生たちが来て、
次から次に色々な説明をされて、
もういっぱいいっぱいになっていて...

更には、相部屋のおじさん達の
マナーや気遣いの無さへのストレス、
全てに限界を感じてる様でした。

それを必死に
耐えて頑張ってる中での、
先生からの急な悪い報告。

それで、溜まっていた全てが
溢れ出てしまったようでした。


それを感じて私も涙が止まらず、
本当に心配で、、、
できることなら変わってあげたいし...
何もしてあげられない自分に腹が立つし...

今思うと私も不安定になっていました。


それと同時に、
説明は明日の予定なのに、

前日の夜に急にサラッと
悪い結果を伝えに来た先生にも、
不信感が募り、、、


旦那が弱いだけなの?
そんな悪い結果を、
普通はすんなり受け入れるものなの?

それに、
何人かは良くなってます」って、
先生的にはプラスな言葉を
言ったつもりかもしれないけど、
その言い方は不安になるよ。

と疑問に思っていました。


旦那は、深夜3時頃には、
やっと眠りに付けたようでした。


つづく。



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