カテゴリ: 私のリアル人生物語【母と私と夫と。】



今まで私が隠してきた事実。

私がやっと辿り着いた答え。

私の人生って
一体どうなるのだろう。


母と私と夫と。
~過干渉な親に育てられた娘の人生~


今までのブログには
一切、書かかなかった事実。

これから、少しずつ
書いてみる事にしました。


この事実に関しては、
絶対に書くことはないと
思っておりました。

とても難しく、
デリケートな問題で、

簡単に理解してもらえるような
ことでは決してなくて、

自分自身だけの中で
向き合っていくべき運命...

ずっとそう思っていました。


ブログに書いていないだけではなく、
この事実の全てを知っている人は、
私の周りには誰も居ません。

(少し知ってる友達は数名居るけれど、
やっぱり全てを簡単に話せる内容ではないし、
私もどう言葉にして良いのかが正直分からない。)



でも、少し前、
私の好きなブロガーさんが
お母様との関係について
記事を少し書いてらっしゃって、

それを読んだ瞬間、
私だけじゃなかったんだと
救われて胸が熱くなりました。

そのコメント欄を見ると、
同じ悩みを持つ方がたくさん...

更に救われた気がしました。


そのブロガーさんのようには、
決してなれないけれど、

私もブログに書くことで、
何か変わるのではないか。

何も変わらなくても、
今までのことを文字にして、
自分の素直な気持ちを書くことで、
少しは気が軽くなるかもしれない。

(逆に気持ちが重くなり、
書けなくなるかもしれないという
リスクもあるけれど...)

私の未来に
光りが見えた瞬間でした。


そして、私の夫についても。

なぜ、無職なのか...
なぜ、子供が居ないのか...

そのことに関しても、
簡単には書けずにいました。

簡単に理由を書けるほど、
単純なことではないから...


私がこれから
全てを書いていく中で、

夫の過去や現状についても
触れていくことになると思います。


ブログに書く以上、
分かりやすい文章を心掛けますが、

読みにくくなってしまった場合は、
申し訳ありません。


赤裸々に書く以上、
リアル過ぎる、重い言葉も
出てくるかと思います。

そして、
この問題と無縁な方には、
全く理解できない
内容になるかと思います。

不快な気持ちになる方も
居られるかもしれません。

その際は、どうか、
サッと画面を閉じて頂けると幸いです。

(私は自分の味方をしてほしい訳でもなくて、
母や夫の批判をしてほしい訳でもありません。
ご理解頂けると大変救われます。)


私の幼少期から、
現在の夫との生活まで。

そして、これから。

「母と私と夫と。
~過干渉な親に育てられた娘の人生~

と、ちょっと重い雰囲気がありますが、
分かりやすく名付けさせて頂いて、

今後、、、
いつも通りのブログ記事の間に
少しだけ挟まさせて頂きます。

では、今後とも
宜しくお願い致します。



続きを読む



プロローグは、こちらのリンクから...



昭和という時代に
終わりが近付いている頃、
私はこの世へ生まれた。

父・母・祖父・祖母・叔母、
そして大勢の親戚たち、

長女、初孫だったことから、
たくさんの人に祝福され、

私が生まれた頃は
きっと他の子と同じように
幸せな赤ちゃんだったと思う。


そんな私が物心ついたのは、
保育園生の頃。

その頃には、
弟も生まれていました。


途切れ途切れの記憶がある中で、
自分でもハッキリ覚えているほど、
私は完全な“人見知り”という性格だった。

人見知りの度合いが
他の子とは比にならないレベル。

家族や近い身内、
保育園の先生や友達は大丈夫。

でも、それ以外が絶対にダメ。
特に大人のひと。


私が声を一言発しただけで、
「えりかちゃんが喋った!」
と近所で話題になるほどでした。

家のピンポンが鳴るだけで、
物置き部屋の奥にじっと隠れて、

来客が帰るまで、
何時間も出てこない。

私自身、隠れていた記憶はあるが、
何故そこまで知らない人が嫌だったのかは
未だに分からない。


母はそんな私を
心配するようになり、

母なりの愛情を
かなり注いでくれていた。

ずっと共働きの両親なので、
幼い頃から祖父母の家へと
預けられる事も多く、

私も祖父母が大好きだったようで、

祖父母からもかなりの
愛情を注いでもらっていました。


母や祖父母、
その愛情の大きさが
正常だったのかは、
今となっては私にも分からない。

でも、
その頃の私は毎日が楽しかったし、
何の違和感も感じていなかった。

しかし、今思い返してみると、
すでにその頃から私は、
大人の顔色を伺って言動していた。


そして、私は小学校へ入学。 

たくさんの人たちに祝福され、
母からも入園グッズを
いっぱい用意してもらい、

“人見知り”も最大に発揮しながら、
新しい友達の中へと入っていった。

母はさぞかし心配だっただろう。


私もそんな母に甘えていた。

何かある度に、
「おかあさーん」
って心の中で思っていた。

お母さんに言えば、
何でも解決してくれるから。

私の幼い心は、
すでにこの頃から
母に依存していたのだろうか。


小学1年生。

母は夕方まで働いていて、
家には誰も居なかったため、

私は近所の曾祖母の家に
学校から毎日帰宅していた。


曾祖母からも、その家族からも
優しく可愛がってもらっていたけれど、
私はそこでも人見知りを発揮していた。

毎日母が迎えに来るまで、
何時間も同じ場所に座って、
ほとんど喋らずに待ち続ける。

私はその、母を待つ時間が
あまり好きではなかったことを
今でも覚えている。

喉が渇いても、
「お茶ちょうだい」
そんな一言すら何故か言えなかった。


「えりかちゃんは
本当に大人しい子。」

親戚にも近所の人にも、
みんなからそう思われていた。


家に帰ると、
今までの大人しさが
全て嘘だったかのように、

今日あった出来事を
母に喋り続け、たくさん笑う。

人格が変わるほどの私でした。


1年生になり、
徐々に学校に慣れてきた頃、

宿題や宅習という、
家でのお勉強が
本格的に始まった。

親戚のお兄ちゃんから貰った
お下がりの学習机に座って、
毎日宿題を私なりに頑張っていた。


しかし、
その宿題を見て、
母が豹変する。

「ここが違う!」
「字が汚い!」
「何で分からないの?」
「何回言えば分かるの?」

たった一つの間違いでさえも、
すごく怒られていた。


そんな毎日の宿題の時間が
どんどん大嫌いになっていった。

宿題をすれば怒られる。

でも、
宿題をしなかったら、
もっと怒られる。

私にとって、
勉強は“嫌なもの”
宿題は“憂鬱な時間”
そう認識されていた。

そんな私の認識が
言動に出ていたのか、

母の厳しさは、
日々増すばかり。


宿題をするのも嫌だったのに、
母から、これから毎日
“宅習”をするようにと言われた。

1年生だから、
1日1ページ。

2年生になったら、
1日2ページ。

学年に応じて
増えていくというルールを
母が決めた。


最初は私も頑張って、
言われた通りにやっていた。

でも、
やってる途中に
母が覗きに来て、
何かしら怒鳴られる。

「ここ違う!」
「書き方が違う!」
「もっと丁寧に書きなさい」
「いい加減にしなさいよ」
「早く終わらせなさい」

文字にすれば、
どこの家庭でも
飛び交っているような言葉。

しかし、
母の言い方や声の大きさは
異常なものだった。


私はいつも心の中で、
「ちゃんとやってるのに。」
「もっと優しく教えてよ。」
「もうやりたくない。」
「勉強してる所を見られたくない。」
そう思い続けていた。


7歳という幼い私なりに、
態度や言動でそれを主張していた。

しかし、母にはそれが通用しない。

母の怒りは、
更に増すばかり。

私は泣きながら怒りながら
毎日勉強を嫌がり続けた。

そんな私の態度や主張が
許されるはずもなく、

怒る母は、
すぐ私をビンタするようになっていた。


小学1年生の私。

毎晩の勉強時間に、
どれだけ怒られて怒鳴られて、
どれだけビンタされていたのかは
数え切れないほどである。

今と昔では、
時代の違いがあると思うが、

同年代の方々と比べても、
うちはやっぱり、その頃から
異常だったのかもしれない。

私は何十年経った今でも、
その記憶を忘れられない、
本当に嫌な思い出だ。


そんな厳しい母だったが、
休みの日には色んな所へ
遊びに連れて行ってくれて、

私の身の回りのお世話も
きっちりやってくれていて、

愛情たっぷりだった。

怒ると怖いけど、
どこの家庭も母親は
そういうものなんだろう
と思っていた。


私はそんな母に
完全に頼りきっていた。

「お母さんが全部やってくれる」
私は純粋にそう思っていた。


そんな私の幼少期。

とても厳しくて
怒ると怖い母だけど、

それは、
私が言うことを聞かなかったり、
勉強をちゃんとしないから
怒られても仕方ないことだと、
私の中で飲み込もうとしていた。

愛情は感じていたので、
普通の家族と同じだと思っていた。

まだこの頃までは・・・


つづく


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プロローグや1話はこちらのリンクから。



家での勉強時間で
母から毎日怒られていた私。

私が2年生に上がった頃には、
母の怒りは勉強時間だけでは
収まらなくなっていた。


毎日の生活の中で、
言うことを聞かなかったら怒られる。
何かをこぼしたら怒られる。
出来ない事があると怒られる。
母がしてほしい事をしないと怒られる。

怒られるけれど、
きっちり最後まで相手をしてくれて、
結局は全て母が解決してくれる。

そして、最後には、
「ほら、お母さんの
言った通りだったでしょ?」
と納得させられる。


こんな風に聞くと、

“ごく普通の家庭で
子供に躾をしている
普通のお母さん”

という印象を受ける人も居るだろう。


しかし、何かが違った。


学年が上がり、
私も成長していく中で、

私は母から怒られる事が嫌で、
“どうすれば怒られないのか”を
いつも考えるようになっていた。

もちろん
母の言うことを聞き続けるのが
1番良いのは分かっている。

なので、
俗に言う“お利口さん”な子になって、
怒られないように過ごした。


しかし、母の怒りは
それだけでは抑えられない。

気を付けてはいても、
私の不注意で、

忘れ物をしたり、
飲み物をこぼしてしまったり、
母が気にくわない事を言ってしまったり。

そんな時には、
母の怒鳴り声が響く。


そんな毎日が続くと、
母が怒るであろう内容は
母には何も話せなくなり、
私は隠すようになっていた。

時には嘘をついて。


失敗は隠せば怒られない。
嘘で誤魔化せば怒られない。

少しずつ私は
変な自信を付けていった。

全ては
「お母さんから怒られたくない」
という一心で。


そんなある日。

給食で使う“箸箱”を
学校に忘れてきてしまった。

母に洗ってもらって、
明日も学校で必要な物。

しかし、忘れた事を
母に話すと絶対に怒られる。


私は、母には何も言わずに、
明日学校で自分で洗おうと決めた。

そして、
寝る時間まで母にバレないか
ビクビクしながら過ごし、

寝る時間になって、
そそくさとベットに入った。


子供ながらに、

早めに布団に入ると不自然で
勘の良い母は何かあると気付くだろう。

できるだけいつも通りの雰囲気で
自然に寝て朝を迎えよう。

そう思っていた。


しかし、母にはかなわない。


私が布団に入ってすぐ、

「えりかー!箸箱は?
まだ出してないでしょ?」

食器洗いを始めた母が気付いた。


私はとっさに、

「出したよ!」

と嘘をついた。

絶対にバレる嘘なのに、
「忘れた」の一言が
怖くて言えなかった。


「えー?どこ?無いよ?」

母はシンクの中を探している。

私は何も答えられず、
眠いふりをして寝ようとした。


母は何かに勘付いたのか、
私のベットまで来て、
強い口調で尋問を繰り返した。

「本当に出したの?」
「何時頃に出した?」
「どこに出した?」

たった箸箱1つのことなのに。


母の強い口調と
返答できない自分に
涙がでてきた。

そして、
「学校に忘れた」
小さい声で白状した。

私が嘘をついていたという事実で、
母の怒りは沸点に。

泣いている私は
母に服を引っ張られ、
庭に追い出された。

夜9時頃で肌寒い季節だった。


30分か1時間が経った頃、
母はまだ怒りながら、
「もう入って寝なさい。」

こうして私は
ぐったり泣き疲れた状態で
眠りに落ちた。


こんな風に、
毎日母に怯えながら
過ごしていた私の記憶。


勉強に関しては、
更にスパルタ教育だったので、

勉強の時間が
苦痛でたまらなかった。

母から決められたルールである、
学年ごとにページ数が増える“宅習”

母にチェックされるのが嫌で、
私はノートを隠して、
宅習帳をなくしたフリをする。

もちろんバレると
容赦なくビンタが飛んでくる。


そんな風に、
母に怯えながらも
反抗して闘っていた私。

“嘘で誤魔化す”という
悪い癖が付いてしまった私。


良いも悪いも判断できず、
小学生の私にはそれが精一杯だった。

母を怒らせたくない。
優しく笑っていてほしい。

それが私の願いだった。


つづく



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プロローグや過去の話はこちらのリンクから...



小学3年生へと、
また1つ学年が上がった私。

父・母・弟との
家族での時間が楽しくて
涙が出るほど笑い転げることも
数え切れないくらいあって、

幸せな日々を送る中、

母の機嫌を伺いながら、
気を使って言動している日々も
相変わらず続いていた。 


私も成長する中で、
どうして母が怒るのかを理解して
対策することも出来るようになっていた。


例えば、

私が飲み物をこぼすと、
母が怒る理由。

私がこぼすことによって、
拭いて片付けるという
余計な仕事が1つ増えてしまう。

毎日忙しい母なので、
私が余計な手間を増やしてしまうから、
イライラするのかもしれない。

ただ怒鳴られているだけだったが、
私は自分の勘でそう察知した。


そして、次から
何かをこぼした時には、
サッと素早く拭いて
自分で最後まで処理をする。

すると、母は怒らなかった。

どうやら、
私の勘は当たっていたようだ。


そんな感じで、
色々な場面で母の顔色を伺いながら、
自分なりに対処していった。


3年生にもなれば、
友達の話を色々聞いて
やりたい事や欲しい物が増えていた。

母に話すと、
私が欲しい物は
ほとんど却下された。

ゲームやおもちゃ、
本や文房具。

友達がみんな持っている物。
母は同じものは買ってくれなかった。


「それはダメだけど、
これが良いんじゃない?」
これなら買ってあげるよ。」

母はいつも、
私が欲しかった物とは
少し違うものをいつも勧めてくる。


本当は心の中で、
「それじゃない」と思っていても、

私が欲しい物は
どうせ買ってもらえないので、

仕方なく、母が勧める物を
買ってもらうしかない。


「買って貰えるだけいっか」

と思う反面、

「これを買ってもらった以上、
本当に買ってほしかった物は
もう絶対に買ってもらえない。」

そう悟って、
いつも複雑な気持ちで喜んでいた。


習い事を始めた友達の話を聞いて、
羨ましくて「私もやりたい」と
お願いしたこともあった。


どうせダメって言われるだろうな。

そう思って、
ダメ元で頼んでみたら、

「いいじゃん。
やってみなさい。」

すんなりOKが出た。


私は嬉しかった。

習い事が出来るという事も
もちろん嬉しかったが、

母が許してくれたという事にも
喜びを感じていた。


母が良いと思うものは、
すぐにやらせてくれる。


しかし、“ピアノがしたい”と
お願いした時だけは母が渋った。

「多分向いてないと思う」
「絶対続かないと思うけど」

やっぱり母は、
私には合わないと思うこと、
母が良いとは思わないことは、
決して許してくれない。


しかし、
幸運なことに、

その話を偶然聞いていた祖父母が
母を説得してくれて、

私はピアノを
習い始めることができた。


そして、祖父母は私に
60万円以上もする
立派なピアノも買ってくれた。

私は初孫ということもあって、
祖父母からは特別扱いされ続け、
ずっと溺愛されていたのだ。

(のちに、この祖父母からの愛情も
少し異常なものだったのだと気付かされ、
私の人生に悪影響をもたらすことになる)

母は最後まで、
「どうせ続かないから、
安い電子ピアノでいいのに」
と納得していなかった。


そんな流れで、
私は小学生の頃、
色々な習い事をしていた。

習字・ピアノ・そろばん・
英語・バトミントン。


私の為になると母が判断したものは、
私の熱量がそこまで高くなくても、
簡単にやらせてくれた。

私は、
「自分がやりたい」
という気持ちより、

「母が許可してくれた」
という嬉しさだけで、
習い事を始めるようになっていた。


最初は楽しく通い、
どれも基礎までは学んだ。

しかし、結局、
頑張って続けるのは、
私のヤル気と気持ち次第。


学年が上がるにつれ、
放課後は友達と
自由に遊ぶことの方が
楽しくなっていった私は、

母に、
「今日、教室休みだって」
と伝え、

教室の先生には、
「今日は用事があるので休みます」
と電話をして、

ここでも“嘘”をついて、
サボることが増えていった。


結局は、
数年間続けた後に、
どれも辞めたのだが、

母が勧めた習い事を辞める時には
思いの外、あまり何も言われなかった。


しかし、
母が反対していた
“ピアノ”を辞めた時だけは、

「だから、言ったでしょ?」
「ピアノは向いてないって分かってた」
「あのピアノどうするつもり?」
「どうせ続かないから、
ピアノはいらないって何度も言ったのに」
「最初からお母さんの言う事を聞いておけば、
こんなことにはならなかったのよ」

私の選択は間違っていたんだ。
と自分の中で後悔するほど、

その後、数年間も
母から小言を言われ続けた。


そんな事を繰り返すうちに、

母が良いと思うもの、
許可してくれるものだけを
受け入れる私。

私が選ぶものは、
私にとって悪いもの、
自分に合っていないものなんだと
認識する私。

そんな私になっていった。


そして、
私自身が心からやりたいと思っている事を
やっている訳ではないので、

“何も長続きしない”という
私のダメな性格も出来上がっていった。


今になって思い返すと
明らかな異変に気付けるのだが、

当時の私は、
何も異変を感じることなく、
それが当たり前の日常で
何の違和感も感じない“私”だった。


つづく



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プロローグや過去の話はこちらのリンクから...



まだこれまで
一度も出て来ていない父の話。

私にとっては、
凄く優しい父である。

私は今まで、
父に一度も怒られた事がない。

母とは正反対だ。


父は生まれてすぐに祖父母に預けられ、
祖父母を実の両親だと思って育ったらしい。

実の母は県外に居たが、
祖父母が両親ではないと知ったのは、
中学生の頃だったらしい。

とても複雑な環境で育てられた父。


そんなこともあって、
父は自分の家族を持つことが夢で、

家族のことを
最優先してくれて
とても大切にしてくれた。


運転が好きな父は、
休日にはいつも、
色んな所に連れて行ってくれた。

もちろん母や弟も一緒に。

家族の時間を、私のことを、
本当に大事に想ってくれている。

心から素直にそう感じ、
父の愛情を受け取ることができた。


会話する時には、
いつも優しい声で話してくれた。

父と話すときは、
とても穏やかな気持ちで
喋っていたことを今でも思い出す。


あとから聞いた話だと、
私が女の子だったから、
特に父は優しかったらしい。

「父は娘には弱い」
巷でよく聞く言葉通りの父だった。

弟には、
厳しく怒ることもあったらしい。


母は息子に甘く、
父は娘に甘い。

我が家もそんな、
よくある家族関係だった。


子供にとっては
とても良い父親だったと思うが、

母との夫婦関係は、
それなりに色々あったみたいだ。

それはどこの夫婦も
きっと同じだろう。


うちはずっと両親共働きで、

母もパートなどではなく
ずっとフルタイムで正社員として
途切れることなく働いていた。


しかし、
昔の典型的な形なのか、
家のことは全て母任せ。

外回りのことは父の担当。

世話好きの母も
当たり前のように家事をする。

全ての家事はもちろんのこと、
父の身の回りのこと、
お金関係や手続き関係も全て母任せ。

父は一切やらない。


そんな母に頼りっぱなしの父は、
いまだにATMでの
お金の下ろし方も知らない。

アウトドアが得意な反面、
家のことになると弱い父だった。


家のことは“お母さん”がやるもの、
“お父さん”ってこういうもの。

私は小さい頃から、
どこの家庭もそれが
当たり前なのだと思っていた。


子供から見ると、
度々喧嘩もしていた両親だが、
基本的にはとても仲が良かった。


しかし、
家庭内での関係性は
圧倒的に母が強い。

喧嘩している会話を
何度も聞いた事があるが、

毎回、母が怒っていて、
父はそれを静かに受け止めていた。

母は自分の思い通りにならないと
気が済まない性格なので、

父は自分の考えを諦めて
飲み込んでいたのだろう。


母は自分の意見を通すが、
必ず有言実行していたので、
父も母には何も言えなかったようだ。

「お母さんの言う通りにしておけば、
絶対に間違いないから。」

いつの間にか、
父もそう言うようになっていた。


父が母に怒っているのも
数回見たことはあるが、

引き金はいつも
母の言い方が原因だった。


母も父に対して、
不満はあったのだろう。

全てを母に任せっぱなしで、
酒好きの父は毎日、
仕事が終わると何時間も晩酌を続ける。

もちろん、
そんな父にも悪い部分はある。

でも、
その不満を伝える時の母の言い方が
今思い出しても嫌な言い方だった。


今思えば、
母も忙しい日々の中で
とても大変だったのだと思う。

仕事に家事に子育てに
父の身の回りのことまで。

そう考えれば、父に対する言葉も、
私に対する言動も納得できる部分もある。


しかし、母の言い方、
嫌みを含んだ言葉の選び方、

今思い出すだけでも
嫌悪感を抱いてしまう。


父が何も出来ない事を分かっていて、
父が家族からは絶対に
離れないことを分かっている上で、

母はわざと強く言う。

バカにしたように笑いながら。

「勝手に1人でやっていけば?」
「これからはどうぞ1人で
自由に生きていってください。」
「私が納得できない事をするなら、
どうぞ出て行ってください。」
「お金は渡すから
1人で勝手にすればいいよ。」
「ほんと私が嫌がることばっかり。
嫌がらせとしか思えないわ。」

そして父は、
何も言えずに悲しい顔をして
ため息をつく。


そんな2人の会話。

私は絶対に、
上から押さえ込むような
こんな嫌みな言い方はしない。

そう誓っていたのに...

将来、私が母と同じ台詞を
言ってしまう日が来るなんて...

まだこの時は、
何があっても絶対に
あり得ないことだと思っていた。


つづく



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また1つ学年が上がって、
小学4年生になっていた私。

母の私に対する厳しさは、
更に、日々増していた。


私が母から怒られている時、
いつも優しい父は一切口を挟まない。

そんな父にも、
腹が立つようになっていた私。


母から怒られている最中に、
父に向かって叫んだこともある。

「お父さんも何とか言ってよ!」

怒りが収まらない母を前に、
私は父に助けを求めた。

父はそんな時も、
無情にも優しく笑っていた。


母が決めた毎日の
“宅習”の決まりも続いていた。

学年に応じて、
ページ数が増えていくというもの。

1年生の頃、
1日1ページから始まり、

4年生になったので、
1日4ページに増えていた。


学校の先生的には、

宿題はもちろん
毎日やらないといけないのだが、

宅習は自由だった。


「宅習をした時には
提出してください。」
という軽い感じだった。

クラスメイトは
やらない人が多かった。

やってる人でも
1日1ページ程度。


私はやりたくてやってる訳ではなく、
母から強制でやらされていただけなので、

当たり前のようにやってない友達が
とても羨ましかった。


やることが当たり前、
やらない人はダメな人。

すでに自然と
そういう感覚になっていたので、

「やらなくても良いの?
やらなくても怒られないんだ。」

そう思うと、
少し不思議な感覚だった。


そんなある日、

私は宅習ノートを
毎日提出していたので、

担任の先生も
私の宅習量は知っていた。


1日4ページもノートを使うと、
1ヶ月間で2冊ほど終わる。

ノート10冊目を提出した日、

みんなの前で
先生に急に褒められた。


「宅習ノート10冊、
毎日本当に頑張ってるね。
これは本当に凄いことだよ。
みんなも頑張って
真似してくださーい!」

私は少し恥ずかしい気持ちもあったが、
正直とても嬉しい気持ちになった。


勉強に関して、
母から褒められたことは
1度もなかった。

毎日やることが
当たり前だと思っていた宅習。

やらなくても良いという選択肢が
私にはなかった宅習。


家では母に怒られながら、
毎日嫌々でやっていたのだが、

私は初めて
その事で褒められた。

先生からの言葉で、
心が救われた気がした。


しかし、

素直に嬉しくて
少し照れた気持ちの中で、

「これって凄いことなんだ。
お母さんの言う通りにしてたら
先生に褒められた。」

私はそう解釈してしまっていた。

やっぱりお母さんの
言うことが正しいのだと。


それからの私は、
自ら進んで勉強することも増えた。

褒められたことが
純粋に嬉しかった私。

褒められたいという気持ちが
自然と芽生えていた。


しかし、母からは1度も
褒められたことはなかった。


そんなある日、

私が寝ようとして
自分の部屋に入った時、

隣の部屋から、まだ起きていた
弟と母の会話が聞こえてきた。


「あんたもちゃんと勉強しなさい。
お姉ちゃんはちゃんと頑張ってるんだよ。
毎日毎日勉強してて凄いんだよ。」

とても単純な言葉だったが、
私は本当に嬉しかった。

嬉しくて涙が止まらなかった。


直接ではないけど、
初めて母に褒められた。

あんなに嫌だった
家での勉強の時間。

あんなに何年間も
母から怒られ続けた毎日。

それが全て報われた気がした。


そして、
いつの間にか、
私の心は、

「お母さんに褒められたい」

そう強く願うようになっていた。


つづく


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私には2つ下の、
“優斗”という弟が居る。

私とは真逆の性格の持ち主で、
人見知りなんて皆無だった。

誰にでも人懐っこくて、
近所や周りの大人、
親戚中から可愛がられていた。


人見知り全開の私は、
両親が居ない場面になると、
弟の後ろに付いていったりと、
頼りにしている部分もあった。

弟とは、度々喧嘩もしたが、
普通に仲良くいつも一緒に遊ぶ、
どこにでも居るような
姉と弟という関係だった。 


私から見ると、

そんな弟に
母はすごく甘かった。

「何で怒られるのは
いつも私だけなんだろう。」

そう感じる時も多々あった。


弟は誰とでも仲良くなる反面、
仲良くなりすぎて
友達と喧嘩する事も多く、

相手の保護者に
謝りの連絡をする事もあった。


そんな弟に対して、
最初は少し怒る母なのだが、

私から見ると、

“怒り”よりも“心配”している
という印象が大きかった。


「私が同じことしたら
もっと怒るくせに。」

私はいつもそう思っていた。


母は私に対して、

勉強をしないと怒る。
忘れ物をすると怒る。
翌日の準備物を
早めに伝えないと怒る。

しかし、
弟の優斗が同じことをすると、

「あんたは本当に
自分じゃ何も出来ないんだから」

そう言って全て母が行う。

きっと弟は、勉強の時間に
母からビンタされた事なんて
1度もないだろう。


母の口癖は、
「上下関係なく、
子供には全て平等にする。」

物を買う時も、
片方だけに買う事はない。

いつも何事も、
必ず平等にする。

それが母の方針だった。


確かに、

物を買ったりと、
目に見えることは
全て平等だった気がする。

しかし、
言動や態度は全然違う
と私は感じていた。


今思えば、

父が娘には甘くなる。
というように

母は息子には甘い。

そういう単純なもの
だったのかもしれない。

しかし、当時、
まだ小学生だった私には
そこまで広い心で
受け入れる事が出来なかった。


何か確証がある訳ではないが、

「お母さんは
優斗には怒らないくせに、
私ばっかり怒る。」

「お母さんは、
いつも優斗のことばっかり。」

そういう不満が
心のどこかにいつもあった。


弟は、一歩外に出ると
怖い物知らずでヤンチャに
どこでも突き進んでいくのに、

家の中では、
とっても怖がりな一面もあった。

暗い部屋には入れない。
1人では寝れない。

そんな弟が
母は可愛かったのだろう。


でも、実は、
私の方が怖がりだった。

暗い部屋に入るのは怖い。
暗い廊下を歩くのが怖い。

でも、母には言えなかった。


その頃の私はもう、

母に褒められたい、
怒られたくないという一心で
「しっかり者の私」を装っていた。


実家のトイレに行くには、
廊下を通っていくしかなかった。

夜になるともちろん暗い。

それが私は怖かった。


電気を付ければ良いのだが、

母の顔色を伺った結果、
「電気代がもったいないから
付けない方が良さそうだ。」
と私は判断していた。

毎回、怖いのを我慢して
暗い廊下をいつも駆け足で
トイレに行っていた。

時には恐怖で、
冷や汗をかきながら。


しかし、弟は違う。

怖いからと言って
当たり前のように毎回
電気を付けっぱなしで行く。

それを見た私は、
軽い気持ちで自分も
電気を付けた事があった。


すると、すぐに母が来て、
「あんたは暗くても行けるでしょ。」
そう言って電気を消された。

怖いという気持ちより、
悲しいという気持ちが大きくなった。


そして、
トイレから出て
部屋に戻ると、

母が弟とリビングで
楽しそうにじゃれ合っていて、

「優斗はお母さんの宝物だから」

そう言って弟を抱きしめていた。


私はその時、

寂しさ、羨ましさ、絶望、怒り、
色んな感情が一気に駆け巡って

言葉を失い、
その場に立ち尽くした。


その一瞬の出来事で、
私の母に対する不満は、

確信へと変わった。

母に対して、
更に反抗するようにも
なっていた。


いつものように、
私が母から怒られている時、

私の怒りも頂点に達し、

「お母さんはいつも優斗ばっかり。
私のことなんて見てないじゃん。」

泣きながら叫んだことがある。


しかし、母は
全然分かってくれなかった。

理解どころか、
勘違いをしていた。


弟は、小さい頃から、
野球のクラブチームに入っていたため、

父も母もそれに一生懸命だった。

平日も毎日練習で、
差し入れを持って行ったり、
練習に付き合ったり、

休みの日は、
私も試合を見に行っていた。


私はそこに対しては、
1度も不満を持ったことはない。

弟のスポーツに
時間を費やす両親、

それを一生懸命
頑張っている弟の姿を見て、
私は素直に応援していた。


しかし、
母の勘違いはそこへ向けられた。

「優斗の野球ばっかり
行くのが気に入らないんでしょ」

「だったら、明日から
えりかのバトミントンにも
終わるまで付き添うようにするから」


私は心の中で叫んだ。

「違う。全然違う。
そういうことじゃない。
お母さんは何にも分かってない」


母にも、
「そうじゃない」と伝えたが、
それ以外の答えが
見付からなかったようだ。

私もこうしてほしいって、
ちゃんと伝えるべき
だったのかもしれないが、

簡単に言葉で
言い表せるようなことでもなく、

「直接、細かく口で言わないと
分かってもらえないんだ」と思うと、

寂しさと
呆れたような気持ちと共に
自分を惨めに感じた。


つづく



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(※今回の内容には、
少しセンシティブな言葉が含まれます。)

(※苦手な方は、
ページを閉じて頂けると幸いです。)



私が小学校高学年に上がった頃、

まだまだ子供だとはいえ、
少しは成長したと思ったのだろう。

父が私に大事な話をしてくれた。


母がお風呂に入っていて、
私は父と2人でテレビを見ていた。

そのテレビは、
出産や流産などの内容を含んだ
家族のドキュメンタリー番組。


小学生ながら、
ラストの結末に涙していると、

ずっと黙っていた父が口を開いた。


「本当はえりかは、
2人目の子供だったんだよ。」

「実は最初に
男の子が出来たんだけど、
その子は生まれる前に、
お腹の中で死んじゃったんだよ。」

「えりかも大きくなってきたから、
ちゃんと知っておかないとね。」


私を妊娠する半年ほど前に、
母は男の子を死産していた。


私は、
まだ理解が難しい小さい頭で、
必死に理解しようとしていた。

父からの急な話に、
衝撃を受け、必死に理解した私は、
とても悲しくなって涙を流した。


でも正直、
理解出来ていない部分もあって、

その日の夜、布団の中で、
「私にはお兄ちゃんが居たんだ。」
「お兄ちゃん欲しかったな。」
と単純に考えていた。

天国に向かって手を合わせ、
「お兄ちゃんに会いたかったな。」
と純粋にそう思っていた。


数日後、
どうしても気になっていた私は
母に詳しくその時のことを聞いた。

そして、私は気付いた。

もしその子が生まれていたら、
私は生まれていないのだと。


その時、咄嗟に私は、

「生まれてくるのは私じゃなくて、

お兄ちゃんの方が
生まれてくれば良かったのに。」

と自然に心の中で
そう呟いていた。


それをキッカケに
私にはそういった感情が
徐々に強くなっていった。

別に不幸だなんて思ってないし、
家族も大好きだし、
学校も楽しいし、
友達だってみんな大好き。


純粋に心から
そう思っている反面、

友達と同じ物を
買ってもらえなかったり、
みんなが見ているテレビを
見れなかったりして、

少しずつみんなの話に
ついて行けていないと感じ、
友達に対して引け目を感じていた私。

顔は楽しく笑って
誤魔化しているけど、
みんなの話についていくことに
いつも必死だった。


そして、
そういった辛さや
ストレスを抱えたまま、
家に帰ると、

母から怒られたり、
悲しい言葉を言われる毎日。


その頃の私はもう、
自分の悩みや不安など、
嬉しかったことですら、

自分の素直な気持ちはもう、
誰にも言うことは出来なくなっていた。

むしろ、
自分の感情を隠すことに慣れてしまい、
いつも色んな事を誤魔化して
当たり障りなく人と接する事が
自然と当たり前な自分になっていた。


母から辛いことを言われると
すぐに「もう寝る」と言って、
自分の部屋に入って、
ベットで泣きながら寝る。

という毎日を
何年間も過ごした。

私にとってはそれが
当たり前の日常になっていた。


今考えても、
小学生が毎日泣きながら寝る
という事実は異常だったと思う。


そんな日常の中で、
「私は生まれてこない方が良かった」
自然とそう思うようになり、

「死にたいな」

ぼーっとした気持ちの中に、
そんな気持ちが常に
存在するようになっていた。


でも、その頃の私はまだ小学生。

人間の死や自殺について、
大して理解できていた訳ではない。

「死にたい」と思ったところで、
実際に死ぬ方法なんて分からない。


でも、その頃の私は、
テレビや色々な情報から、
子供なりに解釈して、

「死ぬ人って凄いな。
大人になったら死ねるんだ。」

素直にそう思っていた。


それが異常な考えだとは
全く気付いていなかった。

自然にそう思う中で、
「大人になったら私は死ぬから」

気持ちは固まっていた。


そういう気持ちが
ハッキリとあったので、

友達みんなが授業中に
将来の夢を真剣に考えている中、

私は自分の未来なんて
全く想像すらしていなかった。


私には、子供の頃の夢がない。

私が想像していた将来は「死」

別に重く考えていた訳でもなく、
とても軽く考えていたと思う。


将来のことなんて、
一切興味がなく、
どうでも良かった。

私は“今”を必死に生きて、

毎日がただ過ぎ去っていくことを
ぼんやりと感じていた。


だからと言って、
全てが辛かった訳ではない。

毎日学校も楽しくて、
友達もいっぱい居て、
放課後も毎日遊んで、

休日には家族と出掛けて、
私の中では普通の日常を送っていた。


辛いことがあっても、
「どうせ大人になったら死ねるから」

そう考えて、
1つ1つ乗り越えながら
毎日を過ごしていた記憶がある。


こうして小学生の頃から、
いつも私の心の中には、

当たり前のように
「死」という言葉が
存在していたのだ。


つづく



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小学6年生に上がった私。

母から怒られる毎日。
母の言葉に傷つく毎日。
母への怒りがこみ上げる毎日。

相変わらず、
そんな毎日を送っていた。


母は、
気持ちがプラスになるような
言葉を決して言わない。

必ずどんな時でも、
マイナスな部分を指摘してくる。

きっとわざとではなく、
母にとってはそれが当たり前で、
自分でも気付いていないのだと思う。


私が難しいテストで、
98点を取った日のこと。

とても嬉しくて、
少し自慢気に母に見せた。

母の第一声は、
「なんであと2点が取れなかったの?」

今日は喜んでもらえると、
少し期待していた自分がバカだった。


「あと1問なのにもったいない。
もっとちゃんと見直しなさいよ。
ほんとバカなんだから。」


母からの言葉を
素直に受け取った私は、
少しショックを受けながらも、

「100点を取らないとダメなんだ。
98点で喜んじゃダメなんだ。」

私はそう反省していた。


そして、
ついに難しいテストで
100点を取った日。

「そうよ。いつも
それくらい勉強すればいいのよ。
それを続けないと
意味が無いんだからね。」


褒めてくれたというには
少し違った母の言葉だったが、

“怒られなかった”
“母の機嫌が悪くならなかった”
という事実に
私はホッと一安心していた。


母にとっては、
100点を取るのが当たり前。
99点でもそれはダメなこと。

悲しさを感じながらも、
私の心にも徐々に自然と、

いつの間にか
それが染みついていたのだと
大人になってから気付いた。


そんな母との生活を続けていると、

「私がお母さんだったら、
絶対そんなことは言わない。
絶対そんなことはしない。」

「こんな大人には絶対なりたくない。」

と思うような出来事が
ほぼ毎日繰り返されていた。


私はそんな
悲しい出来事がある度に、

自分も同じことをしないようにと、
子供の頃の気持ちを、
子供の立場としての気持ちを
ちゃんと覚えておきたくて、

いつからかメモ用紙に、
箇条書きするようになっていた。


“100点取れなくても
勉強頑張ったことを褒める”

“まずは子供の話を聞く”

“最初に怒られたら
もう何も言えなくなる”

“まずは子供に選ばせる”

“子供が否定しても
それを受け入れて優しく接する”

“勝手に思い込んで決めつけない”


そんなメモ書きは、
その後、数年間、
中学校を卒業する頃まで続いた。

内容は軽く100個は超えていた。


今思えば、
それはとても単純な内容で、
私の母に対する願望でもあった。


そういう毎日の中で、
私には少しずつ、

「お母さんなんて
居なくなれば良いのに」

そんな感情も生まれていた。


お母さんが嫌い。大っ嫌い。
褒められたい。認められたい。

そんな矛盾した感情が、
私の心を毎日駆け巡る。


小学6年生で行った、修学旅行。

友達とウキウキしながら
その日を楽しみにしていた。

準備するものは、
母がしっかり買い揃えてくれた。

そういう時のお世話や管理は、
母は人一倍してくれていた。

心配性な母は、
あれもこれもと
色々用意してくれた。


そして、
すごく楽しい2泊3日の
修学旅行を終えた。


3日目にもなると、

「早くお母さんに会いたい」
「たくさん話を聞いてもらいたい」
「お土産を渡したい」

そんな感情でいっぱいだった。

それと同時に、

「あっ、私、
お母さんのこと好きなんだ。
嫌いじゃないんだ。
私にはお母さんが必要なんだ。」

自分の中で、
素直にそう思っていた。


3日振りに母に会い、
色んな話をした。

素直にとても幸せだった。


こうやって、
たくさんの母の嫌いな部分。
でも、母が必要だという気持ち。

色んな感情を抱きながら、
自分のこと、母のことを、
冷静に客観視できるようになった頃、

私は小学校を卒業した。


つづく



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中学校に入学した私。

小学校から中学校までは、
エスカレーター式に上がるという
少し珍しい地域に住んでいたので、

友達関係は何も変わらず、
憧れていた制服を着ることができて、
楽しい毎日だった。 

学校での生活、
友達関係、先輩との関係、

もちろんそれなりに色々あったが、
それは人並みで、それも含めて、
みんなと楽しく“青春時代”を送っていた。


ただ、この頃には、
自分に対しての“自信”というものを
すでに失っていた。

私は何をやってもダメな人。
自分の意見は全て間違っている。


こんな私と仲良くしてくれて
本当にありがとう。

この友達、みんなのお陰で、
私は楽しい毎日を過ごせているんだ。

友達に対しても、
自然とそう思うようになっていた。


人見知りに続き、
私はこの自信の無さも
自分の性格だと思っていた。

母の言動のせいで、
自分がこうなっているなんて、
この時には全く気付いていなかった。


相変わらずの母だったが、

私が中学校に上がり、
部活も始め、
友達との外出も増えたことで、
私は少し自由になった。

...気がしていた。


そう思いながらも、

母の言動や機嫌に
必ず左右されていた。


学校の勉強も
少しずつ難しくなる頃、

母は自分が教えていくことに
限界を感じていたのだろう。


ある日、自宅に訪れた、
とある教材の営業マンの話を
夢中で聞いていた母。

途中で私も呼ばれ、
色々と説明された。

私は「これをやったら
成績が上がるのかな?」という
軽い気持ちで話しを聞いていた。


しかし、その金額を聞いて
私の心は一気に冷めた。

“60万円”


そんな高い教材いらない。
もしそんな高い教材を買って
途中で辞めたら絶対に怒られる。

むしろ、絶対に
途中で辞めちゃうから、
最初からやりたくない。

私は正直、そう思っていた。


しかし、母から、
「どう思う?やりたい?
これならやれるんじゃない?」

母はその教材を気に入った様子。

私は、母のその様子に、
「やらない」という
たった一言が言えなかった。


何も言えずに居ると、
「えりかがやるなら買うよ。
もう後はあんたが決めるだけだよ。
やった方が絶対良いと思うけど。」


文字にすれば、
すごく簡単なこと。

「やらない」「いらない」
って言えば済む話。


でも、母の言葉には、
「期待」と「圧力」が
ものすごく込められていた。

本当に込められていたのかは、
今となっては分からない。


ただ、この頃の私は、
色々な母からの言葉に対して、
「期待」と「圧力」を
感じるようになっていて、

自分の本当の気持ちは飲み込んで、
母の期待に応えるような
返事や発言をするようになっていた。


「母が不機嫌になるようなことは
絶対に言えない」と思うと同時に、

「母の期待に応えたい。」
それも私の望みになっていた。


「やる」
私はそう返事した。

「本当にやるのね?
これなら出来るんだね?
途中で辞めたら絶対にダメだからね。」


いかにも、
私に選択肢を与えている様に
笑顔で聞いてくる母。

その笑顔の裏にある
“圧力”を感じて断れない私。

私が一言、
「やる」って言ったことに対して、

「自分でやるって決めたんだからね。
お母さんは強制してないからね。」
と念を押してくる母。


もし続かなかった時は、
私のせいに出来るように。

「あんたがやるって言ったんでしょ?」
と私を責められるように。

そんな母の思惑を読み取り、
私は簡単に、そんな未来まで
想像できるようになっていた。


そして、私は
その高額な教材を使って、
頑張って勉強する日々。

勉強が楽しいというより、
母に怒られないために。
母の期待に応えるために。


色々な出来事の中で、
母の“圧力”を感じ、
母から与えられた選択肢には、
母が望んでいるであろう返答をする。

そんな流れが当たり前になっていた。

私自身がもっと強くなれば
良かったのかもしれない。

でも、この時は、
「お母さんの言うことが全て正しい。
自分の気持ちが間違っている。」
と思い込んでいたこともあって、

その圧力には勝てなかった。


あの時、私がもっと強かったら...
私が弱かったからこうなったんだ...

大人になった今でも、
あの頃の自分を責めて、
私は反省を繰り返して
落ち込んでしまう。


母の厳しさや、
母からの圧力を感じながらも、

そんな生活に慣れていた。

悲しい気持ちも、
寂しい気持ちも、
私は全て押し殺して、
人前では平然を装って
自分の感情を誤魔化していた。


それがストレスとなって
影響していたのだろうか。

中学1年生の途中から、
私は必ず毎日、
“金縛り”にあうようになった。


眠りに落ちると、
必ず怖い夢を見て
金縛りに苦しんで目が覚める。

何度寝ても繰り返す。

一晩で3回以上は
金縛りにあっていた。


休日にリビングで昼寝した時にも、
夜テレビを見ながら寝てしまった時にも、
いつどこで寝ても“金縛り”にあう。

そんな毎日が、
2年間以上も続いた。


毎晩、寝るのが嫌で、怖くて、
朝が来ると安心していた。


いつしか、
金縛りにかかる直前には、
自分で分かるようになっていて、

身体が動かなくなっても
苦しくない体制に自分で整えてから、
金縛りにかかるようにしたり。

金縛りにかかっても、
落ち着いて終わるのを待ったり、
色々試して早く終える方法を探ったり。

2年間以上も毎日続いていると、
色々な技を身に付けていた。


しかし、
“金縛り”に対しての、
嫌な気持ちや怖い気持ち、

眠ることに対してのストレスは、
ずっと消えることは無かった。


不思議なことに、
私はそのことすらも、
誰にも言えなかった。

母にはもちろん、
周りの大人や友達にも。

何故か相談できなかった。
ずっと一人で苦しんで悩んでいた。


金縛りにあう毎日が、
1年ほど続いたある日、

1度だけ母に話したことがあった。

「実は私、ずっと前から
毎日金縛りにあってて、
夜中に何度も目が覚めて
よく眠れないんだよね。」

すると、母からは、
「え、なにそれ。
怖いこと言わないでよ。
家建てた時にお祓いしたんだけど。
あんたおかしいんじゃないの?」

と言われて、
すぐに話を変えられた。

そんな事があって、
私は更に言えなくなった。


私にとっては、毎日の金縛りも
当たり前の日常の一つになっていて、
当たり前のように我慢していた。

それが精神的なストレスが原因で、
すごく恐ろしいことだとは気付かずに。


つづく



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