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昭和という時代に
終わりが近付いている頃、
私はこの世へ生まれた。

父・母・祖父・祖母・叔母、
そして大勢の親戚たち、

長女、初孫だったことから、
たくさんの人に祝福され、

私が生まれた頃は
きっと他の子と同じように
幸せな赤ちゃんだったと思う。


そんな私が物心ついたのは、
保育園生の頃。

その頃には、
弟も生まれていました。


途切れ途切れの記憶がある中で、
自分でもハッキリ覚えているほど、
私は完全な“人見知り”という性格だった。

人見知りの度合いが
他の子とは比にならないレベル。

家族や近い身内、
保育園の先生や友達は大丈夫。

でも、それ以外が絶対にダメ。
特に大人のひと。


私が声を一言発しただけで、
「えりかちゃんが喋った!」
と近所で話題になるほどでした。

家のピンポンが鳴るだけで、
物置き部屋の奥にじっと隠れて、

来客が帰るまで、
何時間も出てこない。

私自身、隠れていた記憶はあるが、
何故そこまで知らない人が嫌だったのかは
未だに分からない。


母はそんな私を
心配するようになり、

母なりの愛情を
かなり注いでくれていた。

ずっと共働きの両親なので、
幼い頃から祖父母の家へと
預けられる事も多く、

私も祖父母が大好きだったようで、

祖父母からもかなりの
愛情を注いでもらっていました。


母や祖父母、
その愛情の大きさが
正常だったのかは、
今となっては私にも分からない。

でも、
その頃の私は毎日が楽しかったし、
何の違和感も感じていなかった。

しかし、今思い返してみると、
すでにその頃から私は、
大人の顔色を伺って言動していた。


そして、私は小学校へ入学。 

たくさんの人たちに祝福され、
母からも入園グッズを
いっぱい用意してもらい、

“人見知り”も最大に発揮しながら、
新しい友達の中へと入っていった。

母はさぞかし心配だっただろう。


私もそんな母に甘えていた。

何かある度に、
「おかあさーん」
って心の中で思っていた。

お母さんに言えば、
何でも解決してくれるから。

私の幼い心は、
すでにこの頃から
母に依存していたのだろうか。


小学1年生。

母は夕方まで働いていて、
家には誰も居なかったため、

私は近所の曾祖母の家に
学校から毎日帰宅していた。


曾祖母からも、その家族からも
優しく可愛がってもらっていたけれど、
私はそこでも人見知りを発揮していた。

毎日母が迎えに来るまで、
何時間も同じ場所に座って、
ほとんど喋らずに待ち続ける。

私はその、母を待つ時間が
あまり好きではなかったことを
今でも覚えている。

喉が渇いても、
「お茶ちょうだい」
そんな一言すら何故か言えなかった。


「えりかちゃんは
本当に大人しい子。」

親戚にも近所の人にも、
みんなからそう思われていた。


家に帰ると、
今までの大人しさが
全て嘘だったかのように、

今日あった出来事を
母に喋り続け、たくさん笑う。

人格が変わるほどの私でした。


1年生になり、
徐々に学校に慣れてきた頃、

宿題や宅習という、
家でのお勉強が
本格的に始まった。

親戚のお兄ちゃんから貰った
お下がりの学習机に座って、
毎日宿題を私なりに頑張っていた。


しかし、
その宿題を見て、
母が豹変する。

「ここが違う!」
「字が汚い!」
「何で分からないの?」
「何回言えば分かるの?」

たった一つの間違いでさえも、
すごく怒られていた。


そんな毎日の宿題の時間が
どんどん大嫌いになっていった。

宿題をすれば怒られる。

でも、
宿題をしなかったら、
もっと怒られる。

私にとって、
勉強は“嫌なもの”
宿題は“憂鬱な時間”
そう認識されていた。

そんな私の認識が
言動に出ていたのか、

母の厳しさは、
日々増すばかり。


宿題をするのも嫌だったのに、
母から、これから毎日
“宅習”をするようにと言われた。

1年生だから、
1日1ページ。

2年生になったら、
1日2ページ。

学年に応じて
増えていくというルールを
母が決めた。


最初は私も頑張って、
言われた通りにやっていた。

でも、
やってる途中に
母が覗きに来て、
何かしら怒鳴られる。

「ここ違う!」
「書き方が違う!」
「もっと丁寧に書きなさい」
「いい加減にしなさいよ」
「早く終わらせなさい」

文字にすれば、
どこの家庭でも
飛び交っているような言葉。

しかし、
母の言い方や声の大きさは
異常なものだった。


私はいつも心の中で、
「ちゃんとやってるのに。」
「もっと優しく教えてよ。」
「もうやりたくない。」
「勉強してる所を見られたくない。」
そう思い続けていた。


7歳という幼い私なりに、
態度や言動でそれを主張していた。

しかし、母にはそれが通用しない。

母の怒りは、
更に増すばかり。

私は泣きながら怒りながら
毎日勉強を嫌がり続けた。

そんな私の態度や主張が
許されるはずもなく、

怒る母は、
すぐ私をビンタするようになっていた。


小学1年生の私。

毎晩の勉強時間に、
どれだけ怒られて怒鳴られて、
どれだけビンタされていたのかは
数え切れないほどである。

今と昔では、
時代の違いがあると思うが、

同年代の方々と比べても、
うちはやっぱり、その頃から
異常だったのかもしれない。

私は何十年経った今でも、
その記憶を忘れられない、
本当に嫌な思い出だ。


そんな厳しい母だったが、
休みの日には色んな所へ
遊びに連れて行ってくれて、

私の身の回りのお世話も
きっちりやってくれていて、

愛情たっぷりだった。

怒ると怖いけど、
どこの家庭も母親は
そういうものなんだろう
と思っていた。


私はそんな母に
完全に頼りきっていた。

「お母さんが全部やってくれる」
私は純粋にそう思っていた。


そんな私の幼少期。

とても厳しくて
怒ると怖い母だけど、

それは、
私が言うことを聞かなかったり、
勉強をちゃんとしないから
怒られても仕方ないことだと、
私の中で飲み込もうとしていた。

愛情は感じていたので、
普通の家族と同じだと思っていた。

まだこの頃までは・・・


つづく